神の性質にあずかる:自制

10月 6, 2022

Growing in Godliness: Self-Control
October 6, 2022

ピーター・アムステルダム

オーディオ所要時間:13:30
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「神は私たちに、恐れの霊ではなく、力と愛と自制の霊を与えてくださったからです。」—2テモテ1:7 [1]

ガラテヤ5章で、パウロは御霊の実を9例あげており、それは愛から始まり、自制(節制)で終わっています。クリスチャン的性格を培うことの一環に、聖霊の力によって自分を、つまり自分の情緒や欲望や感情をコントロールする能力をつけることがあります。自制の聖書的概念は、私たち人間には、満たすのではなく抑制すべき欲望があること、そして、ある衝動は控えめに行動に移す、あるいは全くしないでいるべきであるというものです。[訳注:日本語訳聖書では、「自制」の他にも「節制」「節度」「慎み深い」「分別がある」などの言葉が使われています。]

箴言には、「自分の心を制することができない人は、城壁のない…町のようだ」と書かれています。[2] 聖書の時代には、町の周りにめぐらされた城壁が、その町の主要な防御手段でした。そのような防御物なしに安全はないし、城壁が存在したとしても、破れた部分があるならば、敵はそこを通って町に侵入して、家々を破壊し、財産を略奪し、住民を捕らえることができました。自制も、私たちを罪の誘惑から霊的に守る城壁なのです。それは私たちが欲望を抑制し、適切な限度を守り、行き過ぎないように保ってくれます。

自制(自己制御)は、自分の身体的行為や欲求、欲望、そして思考、感情、発言をコントロールすることです。使徒パウロはテトス書で、神の恵みが私たちを「節度をもって正しく敬虔に今の世に生きるように」教えると書いています。[3] 私たちはそれぞれ自分の心や思いの中に負の要素を抱えて苦労していますが、それは神の恵みと聖霊の助けによって、そしてそれに対して自制心を働かせようという意思によって、制限したり抑制したりできるものです。

聖書で言われている自制・節制とは、私たちの思考や感情、行為、決断に関して、熱情や欲望を抑制する力を与え、思慮深い判断を下せるようにする、内なる性格の強さであると理解できます。思慮深い判断力によって、進むべき正しい道や事態への正しい反応の仕方を見極めることができます。

思慮深い判断力が最善だと示すことを行うためには、内なる強さが必要です。なすべきことを知っていることと、それを実行するための内なる力を持っていることとは、全く別のことです。特に、本当にそれがしたいわけでない時には。自制とは、内なる強さと思慮深い判断力を働かせることであり、それによって、神に喜ばれることを考え、行い、語ることができるようになります。[4]

神の創造された世界を見ると、たくさんの美しく素晴らしいものが目につくし、私たちはそういったものを楽しみます。そもそも、そのために創造されているのです。「わたしたちにすべての物を豊かに備えて楽しませて下さる神」と書かれています。[5] ここで難しいのは、神が創造された楽しいことであっても、それが私たちを振り回せるほど過度に大切なものとなることを、罪ゆえに私たちが許してしまうことです。

適度に行うのであれば完全に申し分なくとも、過度に行えば問題となるような行為はいくらでもあります。たとえば、アルコール摂取、食事、コンピューターゲーム、テレビ鑑賞です。そのようなことに過度にふけり、不健康な結果や神の教えにもとる結果をもたらすほどになるならば、あるいは、自分の人生にとって過度に大切なものとなるならば、適切でくつろげ、楽しい行為であっても、抑制しようとしないために害を生じさせてしまいます。

必要だけれど難しいことをしなければいけない時にも、自制は必要です。例えば、運動です。運動には健康上多くの益があり、体を強め、気分をよくすることは知っていても、多くの人にとって、継続して運動するのは難しいものです。別の例をあげると、主や主の言葉のために過ごす特定の時間を毎日確保することです。そうすべきことは知っているし、それが神との関係に役立つことも分かっていますが、それでも忠実にやり続けることは難しいものです。すべきだと知っていることを行うのも、また、自制心を働かせていることなのです。

自分や周りの人の害となることを我慢するのも、自制の一部です。例えば、怒りや無作法な発言です。ヤコブは、舌のことを「制しにくい悪であって、死の毒に満ちている」とし、こう語っています。「わたしたちは、この舌で父なる主をさんびし、また、その同じ舌で、神にかたどって造られた人間をのろっている。同じ口から、さんびとのろいとが出て来る。わたしの兄弟たちよ。このような事は、あるべきでない。」(ヤコブ3:8–10) 私たちは言葉に気をつけるべきで、みさかいのない言葉をみだりに口から出してはいけないということが書かれています。

聖書はまた、人のうわさを言いふらしたり、陰口を言ったりすることに反対しています。[6] 訳本によって、「人のよしあしを言う」、「陰口をたたく」、「中傷する」などの言葉が使われており、人のうわさを広めたり、秘密を漏らしたり、人を中傷するという概念を伝えています。他にも、人を中傷したり、悪意に満ちた嘘を語ったり、悪口を言ったり、そしったりすることをしないよう警告されています。[7] 自分の語ることに自制心を働かせることは、キリストに似た者となる上で極めて重要なので、次のように祈るのが賢明です。「主よ、わが口に門守を置いて、わがくちびるの戸を守ってください。」[8]

自制心を働かせることの一環として、思考をコントロールすることも求められています。私たちの行動は、まず心の中で起きていることが表れたものです。つまり、私たちの思考や決断、心のつぶやき、記憶などです。クリスチャン著作家の中には、これを「思考生活」と呼ぶ人たちがいます。私たちの行動や言葉は、思考の中で起きることに基いているのです。

イエスは、私たちの内部にあるものについて、このように語っておられます。「内部から、人の心の中から、悪い思いが出て来る。不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴。これらの悪はすべて内部から出てきて、人をけがすのである。」[9] ここで「心」と訳されているギリシャ語の言葉は、感情、欲望、欲求、熱情、また意思や性格の宿る所としての魂や心を意味しています。ことわざにもあるように、「思考は行いの父」なのです。思考に対して自制心を働かせることは、キリストに似た生き方をする上で大事なことです。

私たちは自分の行動としては許さないことも、自分の心の中ではほっておくことがよくあります。しかし、そのようなことを考えたままでいるなら、それが行動となる恐れがあります。思考生活において自制心を働かせることは、2つのプロセスからなります。1つ目は、神の教えに反するものが中に入るのを、全力を尽くして防ぐこと。もう1つは、考えるべきことを心に留めることによって、心を新たにすることです。

「最後に、兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい。」[10]

自制のもう1つの側面は、特定の感情を抑えることです。怒り、憤慨、恨みつらみ、自己憐憫は全て、自分にも他の人にも害を引き起こす感情の例です。感情の爆発となって表れる怒りは2つの点で有害です。それは、神の教えに反する抑えられない熱情を解き放ち、同時に、その怒りを受ける相手を傷つけます。

怒りを抑えられない人は、多くの場合、他の人を厳しく非難する傾向にあります。通常、事が起こってから後悔はするけれど、怒ったせいで、その後も人間関係は傷つき壊れたままになり、簡単に修復ができないということが起こり得ます。自制心があっても、全く怒らないでいられないかもしれませんが、人を厳しく批判して傷つけることは防げます。「怒りをおそくする[抑える]者は大いなる悟りがあり…。」[11]

恨みつらみや自己憐憫といった他の感情は、必ずしも怒りと同様に人を傷つけるわけではありませんが、私たちにとっても、主との関係にとっても有害です。それは私たちの霊的な命をむしばみ、霊的健康を害します。感情のコントロールは容易ではありませんが、キリストに似た生き方をするという枠の中で見てみるなら、それをコントロールするのは不可欠であることがわかります。

キリストに似た者となっていくことは、思考生活を含め自分の人生において、完全に神の御霊に支配していただくことを意味します。それには、心と体の両方において主に服従し、正しいことを考え、正しいことを行うことを要します。

自制心の成長への道は、自分の人生で欠けている分野が何なのか、そして、もっとよく自制できたならば、神の言葉にもっと近く歩めるはずの分野が何なのかを見極めることから始まります。次のステップは、祈りによってその問題を主のもとへ携え、自分を変えてくださるようお願いすることです。次に、自制心を働かせて、その祈りを行動に移します。すべきでないと分かっていてもしていることに対してノーと言ったり、すべきであると分かっていることに対してイエスと言うのです。

使徒パウロは、自制心の習得を運動選手の行う厳しいトレーニングにたとえています。

「すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである。そこで、わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしない。すなわち、自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。そうしないと、ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかも知れない。」[12]

自制心を伸ばすことは、生涯に渡る取り組みであり、時には2歩進んで1歩下がりながら前進していきます。神の言葉に沿っていない分野を変えようとするには、祈りが必要です。しかし、罪に立ち向かえば立ち向かうほど、私たちの意志力は強められます。たとえ難しい時にも、した方がいいことをするために行動を起こせば起こすほど、そうし続ける力を得ます。自制心が育つと、放縦の束縛から解放される助けとなり、よりイエスに似た者となる力が与えられます。

2017年6月初版 2022年10月に改訂・再版
朗読:ルーベン・ルチェフスキー


1 英語ESV訳.

2 箴言 25:28 新改訳第3版.

3 テトス 2:12 前田訳.

4 Jerry Bridges, The Practice of Godliness (Colorado Springs: NavPress, 2012), 152–53.

5 1テモテ 6:17.

6 箴言 11:13; 20:19; 26:20.

7 1ペテロ 2:1.

8 詩篇 141:3.

9 マルコ 7:21–23.

10 ピリピ 4:8.

11 箴言 14:29.

12 1コリント 9:25–27.

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