バプテスマのヨハネとイエス

7月 11, 2022

John the Baptist and Jesus
July 11, 2022

ピーター・アムステルダム

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ルカによる福音書の最初の方に、バプテスマのヨハネ(洗礼者ヨハネ)の誕生にまつわる出来事、たとえば天使ガブリエルの御告げやヨハネの父ザカリヤの預言などが書かれています。ヨハネの若い時については、「幼な子は成長し、その霊も強くなり、そしてイスラエルに現れる日まで、荒野にいた」 とだけ書かれています。[1] その次に福音書に登場するのは30歳ほどになってからのことです。ルカは「神の言が荒野でザカリヤの子ヨハネに臨んだ」 と書いています。[2]

神の言葉がヨハネに臨んだというのは意義深いことです。なぜなら、ユダヤ教の最後の3人の預言者であるゼカリヤ、ハガイ、マラキ以来、イスラエル民族に語った預言者はもはやいなかったからです。そして4百年間の沈黙を破って、神は再びイスラエル民族に語っておられました。そのことで人々が興奮していたのは、ヨハネのもとへとやってきた人の多さで明らかです。

このように書かれています。「バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマを宣べ伝えていた。そこで、ユダヤ全土とエルサレムの全住民とが、彼のもとにぞくぞくと出て行って、自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けた。」[3] 「彼はヨルダンのほとりの全地方に行って、罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマを宣べ伝えた。」[4]

福音書で「洗礼者」と呼ばれているヨハネ[口語訳ではバプテスマのヨハネ]は、ヨルダン川周辺で宣教をしました。数多くの人がヨハネの説教を聞くために集まり、バプテスマを受けました。「エルサレムとユダヤ全土とヨルダン附近一帯の人々が、ぞくぞくとヨハネのところに出てきて」とマタイが書いていることからわかるように、ヨハネは非常によく知られるようになり、多くのパリサイ人やサドカイ人まで彼の話を聞きにやってきました。[5] また、ヨハネが何者なのかを調べるために、祭司たちやレビ人たちがエルサレムからつかわされてきました。[6]

ヨハネには群衆が集まってきただけではなく、自分の教えや実践を信奉する弟子たちがかなりいました。ヨハネの福音書には、イエスの最初の弟子の幾人かがもともとはヨハネの弟子であったことが書かれています。[7] また、使徒行伝によれば、ヨハネの死後しばらくしてからも信奉者がいたと思われます。[8]

福音書によれば、イエスはヨハネを「きたるべきエリヤ」と呼び、ただの預言者以上の者であることや、女の産んだ者の中で一番大きい人物であることを語っておられます。[9] ヨハネはそれほどインパクトのある人物であり、その生涯について詳しく見てみるに値する人です。いったい彼はどんな人で、イエスとの関係においてどんな役割を担っていたのでしょうか。

イエスとヨハネの誕生物語から、ヨハネがザカリヤの子であるということを私たちは知っています。ザカリヤは祭司だったので、ヨハネも祭司となる資格があったということになります。しかし、生まれる前から、神はヨハネを違った方向へ進むように召しておられました。エルサレムで祭司の役目を果たす代わりに、ヨハネは荒野へ出て行ったのです。

ヨハネは罪からのゆるしをもたらす悔い改めのバプテスマを宣べ伝えており、それは力強いものでした。悔い改める決断をした人なら誰にでもバプテスマを授けていました。ヨハネのバプテスマを受けることは、神の御心への新たな忠誠や、真のアブラハムの子としてふさわしい生き方をするという固い決意を意味します。ヨハネのメッセージは、ユダヤ人の血統であること、アブラハムの子であることでは十分ではなく、罪の悔い改めが必要だというものでした。ヨハネは、こう語っています。「だから、悔改めにふさわしい実を結べ。自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく。神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。」[10]

ヨハネは、すぐに悔い改める必要性を、このように述べています。「斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ。」[11]

群衆から「それでは、わたしたちは何をすればよいのですか」 とたずねられて、ヨハネはこう答えました、「下着を二枚もっている者は、持たない者に分けてやりなさい。食物を持っている者も同様にしなさい。」[12] ヨハネの答えは短くとも、それを聞いていた人たちに対して、悔い改めるには儀式を守ったり犠牲を捧げること以上のものを要するということをはっきりと示していました。悔い改めとは、日々の生活において神の御心にそった行動をとることに現れるものなのです。

この一般的な答えをヨハネが群衆に与えた後、ルカはより的の絞られた答えについて記述しています。取税人や兵士が、自分たちは何をすべきかをヨハネにたずねた時のことです。取税人は、税金システムを悪用することで知られていました。自分の利益のために、実際に支払われるべき金額以上に税金を取り立てていたのです。全般的に言って、彼らはローマの協力者として、一般大衆からさげすまれていました。ヨハネの回答は、決まっている以上に税金を取り立てることをしないという形で、「悔い改めの実」を日々の生活の中に結ぶべきだというものでした。兵士たちへの回答も同様でした。「人をおどかしたり、だまし取ったりしてはいけない。自分の給与で満足していなさい。」[13] このような例により、ヨハネの説教が一般大衆のみならず、ユダヤ社会の末端に存在した人たちに対しても影響を与えていたことがわかります。

ヨハネは説教するとともにバプテスマを授けました。バプテスマ(洗礼)を授けることを指すギリシャ語の言葉(バプティゾ)は、浸す、沈めるという意味です。当時のユダヤ教で行われていた、似たような水の儀式では、人が自分から水に浸かりましたが、ヨハネのバプテスマでは、ヨハネが人を水に浸しました。ヨハネが行ったのは単なる清めの儀式ではなく、悔い改めのバプテスマです。悔い改めた人、心と思いの変化を遂げた人だけに行える外面的な表現なのです。それは古い生き方全体が死に、新しい生き方が生まれることを象徴しています。[14] 新しいスタートであり、バプテスマを受けた人は変化を遂げて、人生に悔い改めの実が現れることが期待されていました。

すぐに悔い改めることの必要性と悔い改めないことへの報いとについて説教したほかに、ヨハネは次のことを告げています。「わたしよりも力のあるかたが、おいでになる。わたしには、そのくつのひもを解く値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。」[15] きたるべき方のバプテスマは聖霊と火とによるバプテスマであり、ヨハネのバプテスマよりも重要で力強いものです。

ルカによれば、民衆はこの時点で、もしかしたらヨハネが救い主(メシア)ではなかろうかと考えていました。[16] ヨハネの福音書では、祭司たちやレビ人たちがエルサレムからつかわされて質問をしています。「『あなたはどなたですか。』…彼は告白して否まず、『「わたしはキリストではない』と告白した。そこで、彼らは問うた、『それでは、どなたなのですか、あなたはエリヤですか。』 彼は『いや、そうではない』と言った。『では、あの預言者ですか。』 彼は『いいえ』と答えた。」[17]

「あなたはどなたですか」という質問に対して、ヨハネはこのように答えています。「わたしは、預言者イザヤが言ったように、『主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声』である。」[18] 後になってから、ヨハネは再度このように語っています。「わたしはキリストではなく、そのかたよりも先につかわされた者である。」[19] ヨハネは、きたるべき方の前につかわされるという自分の召命を心得ていました。

ヨハネは、自分のバプテスマときたるべき方のバプテスマとを対比しました。「わたしは水でバプテスマを授けたが、このかたは、聖霊によってバプテスマをお授けになるであろう。」[20] ヨハネがしたのは清めを与える悔い改めのバプテスマであり、きたるべき偉大な方は救いのバプテスマをもたらすということです。

ヨハネが説教とバプテスマを行っているという知らせは、エルサレムとユダヤ地方のみならず、ガリラヤ地方にまで伝わりました。イエスは、この荒野の預言者のことを聞き、「ガリラヤを出てヨルダン川に現れ、ヨハネのところにきて、バプテスマを受けようとされた」 のです。[21] それはイエスが「年およそ三十歳の時」 でした。[22]

マルコの福音書にはこのように書かれています。「そして、イエスが水の中から上がられるとすぐ、天が裂けて、聖霊がはとのように自分に下って来るのを、ごらんになった。」[23] 天が裂けた、開けたというのは、それが聖書の他の箇所で見られるような幻の経験であったことを意味します。神の霊と油注ぎ(塗油)がイエスの上に臨み、またとどまったのは、このバプテスマをお受けになったときでした。御霊が下るとともに、天から声が聞こえました。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。」[24]

イエスのバプテスマの際に起きた出来事の意義や、それが以降の生涯にもたらした変化は、神がイエスをメシアとして塗油されたこと、また、神の使者であり世の救い主となるためにイエスを備えられたこととして理解できます。ロバート・ステインは、次のように説明しています。「ナザレの大工としてひっそりと神に仕えることは過去のものとなりました。御霊はイエスを塗油し、メシアとしての仕事が今始まったのです。」[25]

少しさかのぼってみると、マタイによる福音書には、イエスがヨハネからバプテスマを受けようとされたとき、こんなことがあったと書かれています。「ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った、『わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたがわたしのところにおいでになるのですか。』 しかし、イエスは答えて言われた、『今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである。』」[26]

ヨハネのバプテスマは悔い改めのバプテスマでした。罪を犯した者に対する、告白してその道を改めるようにとの呼びかけです。ところが、イエスには罪がなかったにもかかわらず、ヨハネからバプテスマを受けに来られました。イエスがヨハネのバプテスマをお受けになったのは、悔い改める必要があったからではなく、罪びとと一体となり、それによって、罪びとの身代わりとなれるようにでした。聖句にこう書かれています。「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。」[27]

イエスがバプテスマを受けに現れたとき、ヨハネは力ある方が来られたのだとわかりました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。…わたしはそれを見たので、このかたこそ神の子であると、あかしをしたのである。 」[28]

天からの神の声がイエスはご自身の子であると宣言し、父と子の関係を確認しました。今イエスは、聖霊によって力を授けられ、宣教を開始する準備が整いました。神の国を宣べ伝え、地上での神の臨在となり、人類をあがなうために父から与えられたメシアの務めを果す備えができたのです。

初版は2015年2月 2022年7月に改訂・再版
朗読:ジョン・マーク


1 ルカ 1:80.

2 ルカ 3:2.

3 マルコ 1:4–5.

4 ルカ 3:3.

5 マタイ 3:5, 7.

6 ヨハネ 1:19.

7 ヨハネ 1:35–40.

8 使徒 19:1–7.

9 マタイ 11:14; ルカ 7:26, 28.

10 ルカ 3:8.

11 ルカ 3:9.

12 ルカ 3:10–11.

13 ルカ 3:14.

14 Leon Morris, The Gospel According to Matthew (Grand Rapids: William B. Eerdmans Publishing Company, 1992), 56.

15 ルカ 3:16.

16 ルカ 3:15.

17 ヨハネ 1:19–21.

18 ヨハネ 1:22–23.

19 ヨハネ 3:28.

20 マルコ 1:8.

21 マタイ 3:13.

22 ルカ 3:23.

23 マルコ 1:10.

24 マルコ 1:11.

25 Robert H. Stein, Jesus the Messiah (Downers Grove: InterVarsity Press, 1996), 99.

26 マタイ 3:14–15.

27 2コリント 5:21.

28 ヨハネ 1:29–34.

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