時間を管理する

6月 28, 2021

Stewards of Time
June 28, 2021

ピーター・アムステルダム

オーディオ所要時間:10:13
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時間は、神が私たちに任せられた最も貴重なリソースです。時間は元に戻すことも、補充することも、取り戻すこともできません。私たち一人ひとりが地上で有している時間は限られており、どれだけの時間が使えるのか、いつ私たちの人生が終わるのかは、神の御手の内にあります。私たちは自分たちの時間の管理者であり、それを賢く使うべきです。自分たちに任せられたものをどう管理したかについて、言い開きをするよう求められるのであり、それには時間も含まれるからです。使徒パウロは言いました。「わたしたちひとりびとりは、神に対して自分の言いひらきをすべきである。」[1]

良き管理者になるという観点から時間を正しく使うことを考える場合、それは、神の性質と性格に沿った、神の御心に従った方法で、神の栄光のために使うという意味で捉えられるべきです。それは必ずしも、祈りや証しなど、主との関係や主への奉仕に直接関係する事柄には限られていません。たとえば、私たちは娯楽や気晴らしのために時間を使うことがあります。

神が安息日を命じていることからもわかるように、休息し、くつろぐ時間を取ることは、神の御旨に沿っています。その時間を神へのもっと目に見える奉仕に使いたいと思っている人たちにとって、一般の仕事をして費やしている時間は無駄だと感じるかもしれません。しかし、働いて自分や家族を養うことは神の性質と神の御旨に沿っており、もしそれを神に委ねているなら、神の奉仕の一部となるのです。

神の御言葉を読んだり祈ったりすることは大切ですが、料理、家の掃除、オムツ替え、家族の世話といった日常の必要事項も同様に大切です。私たちの生活にはバランスの取れた時間の使い方が必要であり、そういった観点から、今私は、良き管理者となることの一環として時間の使い方について話しているのです。

1年間に、私たちはありがたいことに創造主から8,760時間が与えられています。その時間を賢く使い、最大限に活かすのが私たちの責任です。[2] 残念なことに、私たちはつまらないことに時間を浪費してしまいがちなものです。時間管理に関する山ほどの本で言われているように、時間を賢く使うには、自己鍛錬と犠牲が必要です。好きなことや、やりたいことに時間を費やすことをやめて、その代わりに何かの面で進歩を遂げたり、ゴールに向けて働きかけるという目的のために時間を費やそうという決断をしなければなりません。人生において前進したいと望むいかなる面についても、自制された時間管理が必要とされます。

私たちの時間を神の御旨に沿った目的のために使うことの重要性を理解する上で肝心なことは、この人生は永遠への準備をする場所であると認識することです。それに加えて、どう生きるか、この人生で何をして何をしないかが、永遠という時に何らかの影響を及ぼします。それが救いを左右されることはありませんが、聖書の言葉は、来世で受け取る報酬に影響すると言っています。パウロはこれを取り上げて、イエスを土台として人生を築くことについてこのように書きました。

「なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そして、この土台はイエス・キリストである。この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、または、わらを用いて建てるならば、それぞれの仕事は、はっきりとわかってくる。すなわち、かの日は火の中に現れて、それを明らかにし、またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、ためすであろう。もしある人の建てた仕事がそのまま残れば、その人は報酬を受けるが、その仕事が焼けてしまえば、損失を被るであろう。しかし彼自身は、火の中をくぐってきた者のようにではあるが、救われるであろう。」[3]

神の御旨に沿った道や、私たちのための御心に従うこと、主に近づくことのために投資するのは価値あることです。もちろん、時間を充てるべき大切な事柄はそれだけではありませんが、私たちは忙しい生活を送る中で、これらのことを簡単に見過ごしがちなのです。祈りの時間や、神の御言葉を読む時間、また信仰を強め、私たちの人生に信心深さをもたらす行いのために時間を費やすことを、常に後回しにしているなら、結局はすぐにそれらのことを全くしなくなってしまいます。なぜなら、後でそれをする時間があると思っても、結局は何か他のことをして時間を費やしてしまうからです。

私たちの内誰一人として、いつ自分の人生が終わるかを知りません。ヤコブはこのように書きました。「あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。」[4]

私たちの時間は神の御手の内にあります。[5] 長い人生を送るかのように計画するのは賢明なことですが、一方で、明日生きているかどうかわからないかのように時間を使うのも賢いことです。今日という日が神の御心を行う日であり、良き決断をし、寛大になり、他の人に主の愛を分け合い、誰かのために祈り、貧しい人を助け、病人を見舞い、誰かのためにイエスの存在となるべき日なのです。

私たちが自分の時間を使って何をするかは、この人生でも来世でも大切なので、私たちが日々をどう使うかは重要なことです。仕事と、くつろぎ、家族との生活、信仰の生活との間に程よいバランスを保ちながら、ゴール達成を促す方法によって神から与えられた時間を管理することは、私たちの地上の人生の大切な部分です。

毎日の「今」が、ありがたいことにも神が私たちに与えて下さった時間であり、私たちはそれを深く重視すべきです。地上における私たちの時が終わったとき、あなたは神がその手に置かれた貴い贈り物を自分がどう使ったかに満足するでしょうか、それとも後悔するでしょうか。

神は、私たちが人生をフルに生き、神が与えられた人生を、神の性質と性格に沿った方法で謳歌するように、また、私たちが生きる人生において神に栄光を帰し、私たちが生きたゆえに世界がより良くなることを期待して、私たちに地上での人生と時間を与えられました。

現在と永遠に対して賢く投資するというのは、この人生の大切なものに時間を投資すると同時に、来世において価値あるものにも時間を投資するということです。それには、家族を世話すること、夫や妻との関係を育むこと、新しいことを学ぶこと、友情を育むこと、困っている人を思いやること、他の人たちに神の愛と救いを分かち合うこと、親切で寛大になること、地域社会における良い影響力となることが含まれます。要するに、時間を賢く使うというのは、人々の前で光を輝かせ、周りの人たちに良い影響を与えると同時に、天国に宝を積むような、神を反映する生き方をすることです。

そうするには、努力、鍛錬、決意を要します。しかし努力するなら、私たちの生活はより幸せに、より充実したものになるでしょう。時間をもっと有効に使い、時間の浪費を減らすよう努力することをいとわないなら、あなたにとって価値あることのための時間がもっと増え、実際的なものであれ霊的なものであれ、あるいはその両方であれ、自分自身のゴールに達するために働きかけることができるでしょう。効率的な時間管理は生活上のストレスを取り除く助けともなります。

私たちは、ほとんど価値がないことや、全く無価値なこと、あるいはその価値のわりには過剰な長さの時間を奪い取ってしまう事柄で時間を浪費することのないよう、警戒すべきです。少しなら大丈夫でも、自制が効かないと、いとも容易く時間が奪われるものもあります。気晴らしや休息は大切ですが、気晴らしのために幾らかの時間を使うことから一線を越えて、最も有益で価値ある試みや、さらには個人的に最も充実感を得られる事柄の時間を奪い去ることをして、時間を無駄にしてしまうこともよくあるものです。

自分が持っている時間の良き管理者になること、時間の使い方について自制を効かせること、霊的生活と神とのつながりを強めることに時間をあてること、この貴い贈り物を無駄にするのを避けることは、この人生を有意義なものとし、天国に宝を積む助けになります。[6]

神の御旨に沿ったことや、他の人たちを助けること、福音を宣べ伝えることのために時間を使うことで、あなたは、「真のいのちを得るために、未来に備えるよい土台として、自分のために宝を積む」ことになるのです。[7]

2014年3月初版 2021年6月に改訂・再版
朗読:ルーベン・ルチェフスキー


1 ローマ 14:12.

2 エペソ 5:15–16.

3 1コリント 3:11–15.

4 ヤコブ 4:14.

5 詩篇 31:15.

6 マタイ 6:20.

7 参照:1テモテ 6:19.

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