親切:与える側と受ける側

3月 23, 2022

Kindness—Free to Give, Priceless to Receive
March 23, 2022

ミラ・ナタリヤ・A・ゴヴォルハ (ウクライナのハルキウ出身)

足を踏み入れると、いたるところから音楽のような言葉が聞こえる。でも、何を言っているのか、私にはさっぱり分からない。

同じような場所に、これまで幾度行ったことだろうか。助けを必要とする人々のために活動する協会や非営利団体のことだ。さまざまな人への支援が行われている。障害を抱えた人たち(中には見るのも辛いほどの障害もある)。目や耳が不自由な子やダウン症の子など、特別な支援を必要とする児童。大きなバックパックを肩に引っ掛け、幼児の手を引きながら、ベビーバギーを押すシングルマザー。好奇心に満ちた目を大きく見開く孤児。疲れがちで悲しく、おしゃべりが好きな高齢者。そして世界のあらゆる場所からの難民。

そういった場所には、独特の雰囲気がある。何か、言葉では言い難いものが。そこでは、壊れた人生をすぐ近くで目の当たりにする。もっとも過酷で目立つことのない、日々の現実の中での苦しみを。霧に包まれた理性、苦悩する魂、痛む心を戦場として戦われる激しい戦いを。そしてまた目にするのは、絶望が希望に迎えられ、無関心が行動に変わり、憂うつ感が誰か気遣ってくれる人からの親切な行いによってやわらぐことだ。

そうやって気遣いを示す人は、なぜそうするのだろうか。その理由は人それぞれだろう。世界を変えるため、状況を改善するため、少なくともいくつかの問題を解決するため、あるいはおそらく、人の命を救うため、現実に人を助けるため、社会に還元するため、意味ある人生を生きるため、という人もいることだろう。私は、世界各地で何年にも渡り、数多くのボランティアプロジェクトに参加してきた。何が私を動かしたのだろうか。共感だろうか。神への信仰だろうか。善をなす力があるからだろうか。役に立ちたいという願いだろうか。おそらく、そのすべてが合わさったものなのだろう。

あなたも、そういった場所に行ったことがあるだろうか。

ちぐはぐなテーブルと椅子が置いてある多目的室を思い描いてほしい。棚には、ありとあらゆるスタイルとサイズと色の服がびっしりと置かれている。一角には、ベビーバギーやベビー用品が丁寧に保管されている。壁という壁に、缶詰の入った箱が並べられている。薬品や衛生用品の箱も積み上げられているかもしれない。小さなテーブルや椅子が置かれ、おもちゃの箱や絵本、カラフルな文房具が備えられた、ちょっとしたキッズコーナーもあるかもしれない。そしてもちろん、一番大切なのは、そういった場所を動かす力、つまり人間だ。ひと目で分かるように、皆が同じ明るいTシャツを着たり、バッジを付けたりしている場合もある。大学生や中年の主婦、退職はしてもまだ元気ハツラツな人など、普通の人たちが、状況の改善に貢献しているのだ。

「スマイル」、「チャイルド・ハート(子どもの心)」、「レッツ・ラブ(愛を示そう)」、「ヘルピング・ハンド(助けの手)」、「ケア・イン・アクション(気遣いを行動に)」、「ア・ハート・フル・オブ・スマイルズ(笑顔でいっぱいの心)」、「レッツ・ヘルプ(一緒に助けよう)」、「カム・ビフォー・ウィンター(冬になる前に来てください)」、「ビーム・オブ・ホープ(希望の光)」、「ファミリー・ミッション(家族ミッション)」、「ドクター・クラウン(ピエロの医師)」。これはすべて、実在の人道支援組織やボランティア団体の名称だ。私はそのいくつかのメンバーだったことがあるし、半生を費やして、ロシア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア、ドイツ、ルーマニア、フィリピン、モルドバ、イラク、そしてもちろん、祖国のウクライナでも、活発にボランティア活動を行なってきた。

ウクライナでは、いくつものプロジェクトに参加した。ハルキウ州では、90年代半ばに5年間、学生のボランティアを募集して、一緒に孤児院を訪問したり、人形劇をしたり、プレゼントの配布を行ったりした。2000年代の初めには、ウクライナ西部へ行き、カルパティア山脈地域の辺ぴな場所で、人道支援物資の配布を行った。2015年から2017年までの2年間は、ドネツク州からの避難民の子どもを対象とするキャンプに参加し、運営にも当たった。もっと最近では、新型コロナが流行する前まで、チームで児童養護施設の壁画制作を行い、高校生にも参加してもらっていた。

でも、2021年12月に描いた壁画でさえ、もう大昔のことのように思える。今とは違う生活、戦争前の生活だ。

私の愛する素晴らしい祖国、ひどい苦しみを受けて、半ば壊滅的な状態にある祖国に、戻れる日は来るのだろうか。そもそも、こんなふうに命からがら逃げ出す日が来るとは、考えたことなどあっただろうか。難民認定、権利、可能性、一時的な保護資格の限度などについて、できる限りの情報を集めることになるとは。なんとか形だけでも計画を立てようと苦心することになるとは。戦争が終結するまでにどれだけの時間がかかるのか、思い巡らすことになるとは。次々と頭に浮かぶネガティブな場面を、時に弱々しく漠然としたものに思える祈りで克服することになるとは。

そして今、私はこの場所に足を踏み入れている。

西ヨーロッパのとある田舎町に避難してきた私は、必要な情報を得られると聞いて、簡素な通りにあるこの協会にやって来た。門のところで、とてもフレンドリーな係の人が声をかけてきて(それが英語だったことを、神に感謝)、紅茶とコーヒーのどちらがいいかと尋ねてくれた。(好きなほうが飲めて、ミルクや砂糖も選べた。) そして、ビニール袋に入ったクッキーまでくれた。

今私は、小さな中庭にいる。いくつかある簡素なベンチは、順番を待つ少なくとも15ヶ国から来た人たちでいっぱいだ。年配のホームレス男性たち。貧しそうな身なりをした60代のヨーロッパ人女性2人。笑顔で絶えず動き回る子どもたちを連れた、アフリカからの若い母親数人。女性に付き添われて車いすに乗る30代の男性。また、内気なアラブ人少年のグループ。

バッジを付けた人が、建物の内部に案内し、廊下を通って、2つのテーブルと6つの椅子がある小さな事務室に連れてきてくれた。中年の女性が、微笑みながら、小柄で恥ずかしがり屋に見える若い女性の通訳に注意深く耳を傾けている。

何でもできることがあれば助けたいので、何が必要かと尋ねられた。食料はどうか。ベジタリアンか。靴もあるが、サイズはいくつか。シャンプーや歯ブラシは必要か。言語教室に参加したいか。無料のヘアカットもできる。

バレリーという名前の、とても快活で英語のできる52歳の美容師によって、となりにある大きなクローゼットほどの部屋に案内された。私がウクライナから来たと言うと、ハグをしてくれ、それからシンプルな椅子に座らせて、黒い散髪ケープをかぶせ、細い布を首に巻き、どんなヘアスタイルにしたいかと尋ねてきた。

ふと、涙が出てくる。なぜ泣いているのか、自分でもよく分からない。涙はゆっくりと静かに、頬を伝う。もう以前と同じ生活は戻ってこないのだ。

バレリーは明るく会話を続け、自分のこと(普通の平和な日常)を少し話してくれた。砂糖抜きのブラックコーヒーが好きだとか、成人した息子がイタリアに住んでいるとか。その合間に、後ろ髪や前髪の長さはどうしたいかと尋ねてくる。彼女は普段、となり町で経理の仕事をしており、月に一度、ここでボランティアをしているそうだ。

自分がちゃんと世話され、歓迎され、気遣われ、理解されていると感じる。ヘアカットは終わり、バレリーが自分の連絡先を書いた小さな青いカードをくれた。「メールしてね。何でも必要なものや質問があれば、知らせて。一緒にお茶をしながら、おしゃべりするのでもいいわ。」

バレリーや、避難民登録をした際にここで支援を得られると教えてくれた女性、入口の係をしていた男性、そして廊下で働いていたボランティアの人たちに、心から感謝する。

まだ見慣れぬ町の通りをゆっくり歩いていると、20代の頃に暗記した聖書の言葉が、新たな意味を帯びてきた。「あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである。」(マタイ25:40)

こんなに親切な人たちから世話され、神からも愛され守られているのだから、私はきっと大丈夫だ。

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