帆を上げる

5月 24, 2021

Raising Our Sails
May 24, 2021

ピーター・アムステルダム

オーディオ所要時間:10:03
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人生において、私たちがうまくやりたいと思うことは何でも努力を要します。何であれ特定の分野でトップの人が今の場所に到達できたのは、主に、そのために懸命に努力してきたからです。クリスチャンがキリストに似た者となり、神が望んでおられるような人となろうとするのにも、同じことが言えます。神の教えに沿った信念、習慣、態度、考え方、行為を意識して培うには、努力が必要です。また、誤った信念、有害な習慣、神の教えに反する態度、間違った考え方、悪い行為を、意識的に取り除くことも必要になります。

新約聖書のあちこちに、内にある思いや感情であれ、その結果として外に現れる行動であれ、キリストに似た者となるのを妨げるものを私たちの人生から「脱ぎ捨てる」、つまり取り除くという概念について書かれています。そして、信心を育むようなものを「身に着ける」、つまり私たちの人生に加えていくようにと。何かを脱ぎ捨てるには、そうするという決断を下し、行動に出なければいけません。何かを身に着けるときも同様です。脱ぎ捨て、捨て去ることについて、新約聖書に書かれていることを見てみましょう。

あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。だから、地上的なもの…そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。[1]

こういうわけだから、あなたがたは偽りを捨てて、おのおの隣り人に対して、真実を語りなさい。すべての無慈悲、憤り、怒り、騒ぎ、そしり、また、いっさいの悪意を捨て去りなさい。[2]

こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。[3]

以下は身に着けることに関する聖句です。

あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。[4]

あなたがたは、以前の生活に属する…古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。[5]

上記の聖句で勧告されたことを行うには、努力を要します。「捨て去る」「捨てる」「身に着ける」は、いずれも行動です。慈愛、謙遜、寛容、あわれみの心を身に着けることであれ、怒り、悪意、貪欲、悪い欲望を捨て去ることであれ、そのいずれも、ただ自然と起こるわけではありません。それは、私たちが聖書の教えに従い、信仰を実践していくにつれ、聖霊が人生を変え、力を与えてくださることの実です。また、意識して霊的に成長し、クリスチャン的人格を育むことに伴うものであり、そのためには他のどんな訓練とも同様に、特定のことを特定の方法で行うようにと自己鍛錬をする必要があります。いったん、時間と労力をかけて訓練に取り組み、古い習慣を断って新しい習慣を築き始めたなら、聖霊によって少しずつ変えられていき、悪いものを「脱ぎ捨て」て良いものを「身に着ける」ことがもっと自然とできるようになります。

それは何か私たちが、神の助けや恵みなしに自力でできることだと言いたいわけではありません。そうできないのは紛れもないことです。だからといって、自分が何の努力も行動もしなければ、聖霊が私たちを変えてくださるよう期待することもできません。私たちは生涯、罪と闘っていきます。神は私たちの罪をゆるしてくださいますが、私たちは罪を犯さないように努めることが求められています。私たちがキリストに似た者となるのを妨げるものを「捨て去り」「脱ぎ捨て」、最善を尽くしてキリストにある新しく造られたものらしく生きるために新しい人を「身に着け」るべきなのです。

ほとんどの人はそうしようと努めているだろうし、ほどほどの成功は収めていることでしょう。よりキリストのようになろうと意識的に取り組むために努力と自己鍛錬を行うことは、より大きな幸福感、神との関係、達成感、喜びに満ちた生活をもたらします。

クリスチャン著作家であるマイケル・A・ジガレーリは、クリスチャンはそれぞれ、自分の霊的成長において果たすべき重要な積極的役割を持っていると指摘しています。私たちを変え、キリストに似た者とするわざをなさるのは聖霊であると言って、人が自分の霊的成長において役割を果たしているという概念に異議を唱える信者もいることでしょう。キリストのような人格特性としてあらわれているのは御霊の実であり、私たちの努力の賜物ではないというわけです。それもある点では正しいと言えます。

これに関して、ジガレーリは次のように書いています。

成長プロセスをより完全な概念にまとめるなら、神には神の役割があり、人には人の役割がある、ということです。これらの役割の相互作用は、帆船を一つの場所から別の場所へと航行させることに例えられてきました。帆船をA地点からB地点へと航行させるには、二つの極めて重要な要素があります。目的地へと連れて行く風が吹いていなければならず、その風をとらえるために帆は正しい場所になければいけません。この比喩の意味が、おそらくもうわかったことでしょう。神の聖霊は風であり、私たちがキリストに似た者となるように、少しずつ私たちを動かそうとしておられます。私たちは船員であり、帆を上げなければいけません。つまり、神の御霊をとらえられる場所にいるために、自分のできることをすべきです。そうすれば、御霊が私たちを動かして、行くべき目的地へと連れて行ってくださるのです。[6]

自分の生き方において、もっとキリストに似た者になろうとするのであれば、「帆を上げる」必要があります。でも、どうやってするのでしょうか。一つには、キリストのような人格を培う助けとなることをすることによってであり、また、もう一つは、私たちを目的地へと運んでくれる御霊の風をとらえられる場所に帆を張らせるような態度や行動に力を入れることです。キリストに似た者となるというのは、実際のところ、自分が現在持っている人格の一部を改めることであり、そのように自分を変えるのは難しいものです。それは意識的になされねばならず、鍛錬が必要とされます。それでも、神の風に運ばれるというのは、どんな代価を払うにも値することです。

それには、イエスの教えや新約聖書に書かれたことを実践するために要する人格形成を真剣に行うことが必要とされます。福音書の随所で、イエスは神の国(ところにより「天の国」[口語訳では天国])について教えておられます。その国は将来のものであり、現在のものでもあると教えられました。現在において御国に生きるとは、自分の人生に神が支配・君臨してくださるようにすることであり、神こそが私たちを造ってくださった方であると認め、また敬うことです。そして、最善を尽くして、聖書にある神の言葉に沿って生きることにより、神に栄光を帰するような生き方をしようとすることなのです。

もっとキリストに似た者となり、御国を中心とした生き方をするには、自分の人生、決断、行動、霊を、神やその御言葉に沿ったものとする努力を払う必要があります。それは、自分自身のある部分を「脱ぎ捨て」、キリストのような性質を「身に着ける」ということです。愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制といった御霊の実[7] を育てることなのです。帆を上げるために自分の分を果たすなら、私たちはよりキリストのようになっていくことでしょう。

初版は2016年2月 2021年5月に改訂・再版
朗読:サイモン・ピーターソン


1 コロサイ 3:4–5, 8–10.〈新共同訳〉

2 エペソ 4:25, 31.

3 ヘブル 12:1.

4 コロサイ 3:12–15.

5 エペソ 4:22–24.

6 Michael A. Zigarelli, Cultivating Christian Character (Colorado Springs: Purposeful Design Publications, 2005).

7 ガラテヤ 5:22–23.

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