神との交わり

4月 19, 2021

Fellowship with God
April 19, 2021

ピーター・アムステルダム

オーディオ所要時間:13:27
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「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。」—2コリント3:18

どれだけキリストに似た者となっているのかは、私たちの決断や外面的な行動にあらわれますが、それは内面的にあなたがどうあるかということから生じます。絶えずキリストと同じ姿に変えられながら、私たちの内側がキリストに似たものとなっていくのです。

そのように変えられていくための鍵とは、イエスが十字架で死んでくださったことによって私たちがいただいた救いの賜物です。イエスの犠牲のおかげで、私たちには新しい人、「キリストにある、新しく造られた者」[1] となる力があります。アダムとエバの罪によって人類が堕落した結果、神がもともと人類と持っておられた交わりが決裂したからです。しかし神はイエスの死と復活によって、その交わりが新たにされる道を開かれました。

神は御子の犠牲によって、人類がご自身と和解できるようにしてくださいました。和解の定義は、対立をやめること、また争っていた者たちが仲直りすることです。パウロは書簡で、和解について、また私たちが神の家族にふたたび迎え入れられることについて、このように書いています。「もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである。」[2]

交わりを築き直すための代価は計り知れないものでした。神の御子が人類のすべての罪に対する罰を身に受けて、苦しみと死を味わってくださったのです。私たちをご自身との交わりに連れ戻すために神がいとわれなかった代価のことを考えるなら、万物の創造者である方がそのように私たちとの交わりを望み、それをかなえるためならどんなことをもいとわれなかったということに、畏怖の念を抱かずにはおられません。 私たちは神との個人的な関係を持つという祝福、栄誉、機会に恵まれているし、その関係を深めて行くように求められているのです。

イエスは、父との関係のために時間を取ることについて、手本を示されました。「朝はやく、夜の明けるよほど前に、イエスは起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。」[3] 忙しく群衆を助けておられた最中でさえも、神との交わりのため、神に耳を傾けて指示を受け取るために、時間を取られたのです。イエスはこう言われました。「わたしは、自分からは何事もすることができない。ただ聞くままにさばくのである。そして、わたしのこのさばきは正しい。それは、わたし自身の考えでするのではなく、わたしをつかわされたかたの、み旨を求めているからである。」[4]

神との真の交わりは、神を中心に考え、神との関係が私たちにとって一番大切な関係であると認識することから始まります。私たちが神の家族に迎え入れられ、神との関係を持てるようにするために、神が私たちのためにしてくださったあらゆることについて考えてみるなら、神との交わりを築くことを日々の生活の優先事項とすることに喜びを覚えるはずです。主との交わりには、主の御前で時を過ごし、主と意思疎通をし、主を礼拝することが必要とされます。主との双方向のコミュニケーションを持つのです。つまり祈りによって神に語りかけ、読んだ御言葉を通して神が語られる言葉に耳を傾け、私たちに個人的に語ってくださる声にも耳を傾けることです。

イエスとの交わりを優先することは不可欠です。さもなければ、霊的に成長・成熟している健康的なクリスチャンにはなれません。毎日食べていなければ身体的に健康にはなれず、ちょくちょく入浴しなければ清潔ではいられないように、常日頃から創造主と交わっていないなら、霊的に健康で清潔ではいられません。それは、ただただ不可能なのです。

主は私たちのために命を捨て、それによって私たちが永遠に主と共にいられるようにしてくださったのですから、日々の一部を愛と感謝の心で主にお返しするのは、私たちにできる最低限のことです。神と時間を過ごすために、一日のうちに何とか時間を捻出することは、それがどれだけ大変であったとしても、主と交わりを持ちながら生きたいと望むなら、変わることのないコミットメントであるべきです。

主との時間を、仕事か何かしなければならないこととしてではなく、それが実際にはどれほど素晴らしく恵まれたことであるかと考えるべきです。天の父である神に、私たちのために命を投げ出してくださったイエスに、そして私たちのうちに住まわれる聖霊に、近づくことが許されているのですから。私たちの命を支え、私たちを愛してくださり、また、私たちと個人的な関係を築いてくださった、創造主であり救い主である方とつながる時間です。

私たちが日々、神と時間を過ごすのは、神を愛しているからであり、また、神が私たちから賛美や感謝、献身を受けるに値する方だからです。言うまでもなく、私たちにとっても益はあります。主との交わりの時間を取るとき、主はそれに応じてくださいます。他にしていることをやめて、主の御前へ行くとき、私たちは主に耳を傾けてその指示を受け取る姿勢になっています。すると、主はさとしをもって私たちを導くことを教えることがおできになるのです。[5]

イエスは、このように祈られました。「真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります。」[6] 聖書にある真実を実践することで、私たちは聖別された者、清められた者となるのです。「むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。聖書に、『わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである』」と書いてあるからである。」[7]

主の言葉によって主との時間を過ごすなら、成長して変わるよう迫られます。主の言葉は私たちを教え、過ちや罪を指摘し、私たちを戒め、変え、正しい生き方をするようにしてくれます。信仰が成長するにつれ、主の言葉の教えと相いれないことはしなくなります。また、古い自分と罪とを捨て去るにつれ、神の教えにかなった生き方をするようになり、もっとイエスに似た者となります。

祈り、神の言葉を読んで吸収し、神を賛美して拝し、私たちの人生について-希望や夢、成功と失敗について神に語りかけ、罪を告白し、神の助けを求め、神を愛していると告げ、神の語られることに耳を傾けることは、どれもみな、私たちが神と持つべき交わり、交友関係、親交、パートナーシップの一部なのです。

この交わりにあって、私たちは神との関係を発展させ、愛と親近感を深め、真に神を知るようになります。神を知れば知るほど、もっと神と一緒にいたくなります。詩篇には、主との交わりを欲する気持ちが表現されています。

「神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。わが魂はかわいているように神を慕い、いける神を慕う。神よ、あなたはわたしの神、わたしは切にあなたをたずね求め、わが魂はあなたをかわき望む。…わが肉体はあなたを慕いこがれる。わたしはあなたのほかに、だれを天にもち得よう。地にはあなたのほかに慕うものはない。」[8]

主とのきずなに関する聖書の表現法のひとつは、愛の関係、結婚です。リック・ウォレンはそれを次のように言い表しています。

「誰かを親しく知るようになり、その人との時を楽しむ関係になった場合、しなければいけないことがあります。その人と質の高い時間を過ごすこと、意味のあるコミュニケーションを行うこと、そして、様々な状況でその人を観察することです。同じ基準が、神を知り、神との時を楽しむことにも当てはまります。大勢の人の中での恋愛関係は難しいことを覚えていてください。相手の人と二人きりになる必要があります。それこそ、聖書が、キリストを通して私たちが神とのあいだに持っている関係を表現した言葉、つまり愛の関係です。もっとはっきり言えば、結婚です。キリストが花婿であり、神の教会に属する私たちは花嫁です。」[9]

神との関係は、私たちにとって第一の関係であり、それを存続させ、素晴らしいものとしていくには、主と時間を過ごす必要があります。忙しい日々を送っていると、これは難題と言えます。毎日、主と時を過ごすために、一定の時間を作り出す、そして、心から主とつながるためにその時間を使うという強い決意が必要です。

創造主との時間を始めるのにふさわしいやり方とは、しばしのあいだ静まり、自分は主の御前に出ようとしているという認識を持ち、そして主を賛美することです。「感謝しつつ、その門に入り、ほめたたえつつ、その大庭に入れ。主に感謝し、そのみ名をほめまつれ。」[10] 短い祈りを祈って、この時間を主に委ねるのもいいことです。共に過ごす時間を導いてくださるように、気を散らすものやいかなる妨害をも取り去ってくださるように、そして、あなたの目を開いて主の教えにある驚くべきことを理解させてくださるように。[11]

神に耳を傾ける第一の方法は、神の言葉である聖書を読むことによってです。私たちが聖書を読み、書かれていることについて考え、黙想し、それが自分にとってどんな意味があるのか、その意味することを日々の生活にどう当てはめられるのかと自問するとき、神はそれを通して語りかけてくださいます。また、私たちが心を静めて主の静かで小さな声に耳を傾けるときにも、神は語ってくださいます。主が私たちのためにしてくださったことのためにも感謝と賛美をささげる時間を取るべきです。私たちを救い、私たちのために供給して世話をし、祈りに答えてくださったことです。

主の言葉を読む時間は主とつながる時間であり、そこで読んだものについて祈りをこめて沈思・熟考し、それを自分の人生で実践する方法を聖霊から示していただく時間です。言うまでもなく、聖書を実践するにあたり、自分の人生の何かを変えなくてはいけないことがよくあります。私たちの考え方や行動のし方がそのままでいいのか、聖霊が問いかけるからです。神の言葉が告げることについて熟考する際、次のように自問することは助けになります。「この節は私に何を教えているだろうか。どのように実践できるだろうか。私がどこで罪を犯しているのかを示すものだろうか。もしそうなら、私はそれについて何をしようか。今こうして読んでいて、私が祈っているべき特定の状況や人のことが思い浮かぶだろうか。」

主の教えを勉強するにつれ、また主の言葉が私たちに語りかけて罪を指摘し、行動を迫り、そして私たちを作り替えてゆくにつれ、私たちはますます、主と同じ形と姿に変えられていきます。主に語ること、つまり私たちの心や重荷、心配を分け合い、また希望や喜び、夢を分け合うことで、主との関係は育っていきます。主と触れ合い、主を愛し、主に耳を傾ける時間を取り、主から学び、主の言葉を実践し、日ごろから主と交わることは、すべて、主のようになるために不可欠な要素なのです。

初版は2016年4月 2021年4月に改訂・再版
朗読:ルーベン・ルチェフスキー


1 2コリント 5:17.

2 ローマ 5:10–11.

3 マルコ 1:35.

4 ヨハネ 5:30.

5 詩篇 73:24; 143:10.

6 ヨハネ 17:17.

7 1ペテロ 1:15–16.

8 詩篇 42:1–2; 63:1; 73:25.

9 Rick Warren, Rick Warren’s Bible Study Methods, 237.

10 詩篇 100:4.

11 詩篇 119:18

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