9月 16, 2020
神の御言葉の随所で、霊的な歩みに関する数多くの重要な事柄を象徴するために、火の喩えがよく使われています。
聖霊が文字通り炎のような舌となって初期の弟子たちに現されて以来、[1] キリスト教の著作では、キリストの大胆な証人となり、聖霊の賜物によって動こうとする情熱と熱意を、しばしば 「火」 と表現しています。心から言えるのですが、個人的にこの火に魂を動かされることは人生を変える出会いだと思います。
信仰の歩みにおいて試練や困難を経験することは、しばしば嵐や火の中を通り抜けることに喩えられます。使徒ペテロは、弟子たちへの励ましとして、このように語っています。「愛する者たちよ。あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試錬を、何か思いがけないことが起ったかのように驚きあやしむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるためである。」[2]
ペテロは別の箇所で、こう書いています。「こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。」[3]
また、神は預言者イザヤを通して語られたときに、この比喩を使って、重い苦難を味わっていた昔の神子供たちに慰めの約束を語られました。今日でも、この言葉から多くの人が慰めを得ています。「あなたが水の中を過ぎるとき、わたしはあなたと共におる。川の中を過ぎるとき、水はあなたの上にあふれることがない。あなたが火の中を行くとき、焼かれることもなく、炎もあなたに燃えつくことがない。」[4]
ダニエル3章には、バビロンにいた3人のヘブル人がまさに文字通り火による試練を受けたけれど、主が火の中を彼らと共に歩まれたゆえに、生きてそれを伝えたことが書かれています。
私が神の火に対する見方を考えるようになったのは、難破船でたった一人生き残った男の人が小さな島に避難したという短い物語を聞いたことがきっかけです。彼は毎日救助を求めて祈り、目を凝らして水平線を見ていたのですが、救助が来る兆しはありませんでした。待ちくたびれた彼は、自分自身とわずかな持ち物を守るために小さな小屋を建てました。
ある日、島内を食料探しに出かけ、戻ってみると小屋が燃えているではありませんか。彼はなすすべもなく、持っていたわずかな所有物も失ってしまいました。
怒りと混乱の中、彼は砂の上に横たわり、空を見上げ、神に向かって叫びました。「どうしてこんなことをなさるのですか? なぜ、私の人生にこれほど多くの悲劇を起こされたのですか?」 そして彼はそのままうとうとと眠りにつきました。
翌朝早く、近づいてくる船の音で彼は目を覚ましました。とうとう助けが来たのです。救助隊と会ったとき、どうやって自分を見つけたのかと尋ねました。すると、「のろしを見た」という答えが返ってきたのです。
この逸話は、イザヤ61:3の「灰に代えて冠(美)を与え」という神の慰めの約束を物語っています。これは、この世で何が起ころうとも、神の御手は私たちの上にあることを指し示しています。最初は大きな損失や悲劇に見える出来事でも、神がより大きな善をもたらすために用いられることがあるのです。
パウロがコリント1章で語った言葉は、私たちの仕事を永続的なものの上に築くという視点を示しています。「なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そして、この土台はイエス・キリストである。この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、または、わらを用いて建てるならば、それぞれの仕事は、はっきりとわかってくる。すなわち、かの日は火の中に現れて、それを明らかにし、またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、ためすであろう。もしある人の建てた仕事がそのまま残れば、その人は報酬を受ける…。」[5]
これらの火についての喩えは、私の人生の様々な場面で、慰め、励まし、意欲を掻き立ててくれました。内なる聖霊の火を奮い立たせる必要があるとき、あるいはよく喩えられることですが、暗い道を歩いていて、ともしびの炎が暗くなったために前がよく見えないと感じるとき、私は詩篇18:28の「あなたはわたしのともしびをともし、わが神、主はわたしのやみを照されます」という言葉に慰めをもらっているのです。
これらの洞察が皆さんにとっても励ましとなり、たとえどのような状況にいたとしても、そのために必要な信仰の炎を燃え立たせる助けとなることを祈っています。
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