8月 27, 2020
いつくしみ深き 友なるイエスは
罪とが憂いを 取り去りたもう
こころの嘆きを 包まず述べて
などかは下ろさぬ 負える重荷を
—ジョセフ・スクライヴェン(讃美歌312番)
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聖書には「兄弟以上に親密な友人もいる」とあります。[1] その友とは、「わたしは…いつもあなたがたと共にいる」、[2] 「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」[3] と約束しておられるイエスです。イエス・キリストの存在は、私たちが人生の旅路でどれだけ多くの親友を得たとしても、時に感じる心の痛みを埋めてくれるのです。私たちは、イエスにその空白を埋めていただくことを学ばなければなりません。
人生のあらゆる空白をイエスに満たしていただくことを学ぶ方法の一つに、イエスの言葉を黙想することがあります。例えば、静かに座って、「わたし自身が一緒に行くであろう」[4] といった約束に集中する時間をとってください。まず、一日が始まる前のことから思い出してみましょう。あなたが眠っている間、イエスはあなたと一緒におり、見守っていてくださいました。朝が来た時には、太陽が必ず昇るように、主も確かにそこにおられました。あなたが今日一日のことを考えてその日の計画を立てたとき、それらを実行に移す助けを求めているときも、そこにおられました。職場に向かうとき、主はあなたのすぐそばにおられました。あなたが問題に遭遇するたびに、主はあなたと一緒にいて、解決策を見出すのを助けてくださいました。何か良い知らせを聞いたとき、主はあなたとともに喜んでくださいました。困難が起こったとき、主はあなたを慰めてくださいました。あなたがこれを読んでいるときでも、主はあなたのそばにいらっしゃいます。
明日、一日を過ごすときに、イエスをあなたといつも共にいるパートナーとして考えてみてください。イエスがすぐそばであなたと一緒におられることをもっと意識するようになれば、あなたはきっと慰めと友情を見出し、それが孤独を和らげ、他の誰にも、あるいは何にも埋められない空白の場所を埋めてくれることでしょう。—マージ・バンクス
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ソクラテスはかつて「友? そんなものはいない」と言いました。しかしソクラテスは、聖書が「兄弟以上に親密な友人」[5] と表現している方のことを知らなかったのです。言うまでもなく、私は主イエス・キリストのことを話しています。主イエス・キリストは、私たちが持ちうる友の中で最も偉大な友です。「イエスは私の親友です」と言うのは陳腐な表現のように聞こえますが、よく考えてみると、本当にそうなのです。あなたは神と親密な友情を持つことができます。
イエス・キリストが全人類に友情の手を差し伸べたことは明らかです。問題は、私たちのうち何人が本当に神と友になりたいと願っているかということです。主の申し出に応じないなら、主は私たちの友になることができません。相手が友になりたいと思わない限り、私だけの決断で誰かの親友になれるわけではありません。ただその人を選べばいいわけでないのです。相手にも私を選んでもらうことで、関係が発展していくからです。
イエスは私たちに友情の手を差し伸べています。私たちの友になりたいと願っておられるのです。イエスは「罪人の友(仲間)」と呼ばれましたが、それはイエスが実際に売春婦や取税人、またサマリア人の女性と腰を下ろして会話を交わしたからです。求める人には誰にでも友情の手を差し伸べられたのです。言うまでもありませんが、最終的には私たちのために命を捨てることで、それが正真正銘のものであることを証明されました。聖書には、「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」と書かれています。[6]—グレッグ・ローリー [7]
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チャールズ・スポルジョンはかつて、「『キリストは私の友』と言えることは、この世で最も心地よいことの一つである」と言いました。イエスは罪人の仲間[8] と言われて嘲笑されましたが、イエスの十字架上の犠牲によって罪から救われた者は、「イエス! 罪人の素晴らしい友!」という言葉を唱えることの甘美な味を知っているのです。
この世の友が裏切り、地上の敵が襲ってきても、イエスは完全なる友として私たちの側にいてくださいます。私たちに対するイエスの愛は、私たちが何者であり何をしてきたかに関わらず、無条件です。イエスの愛は、気まぐれでも一時的なものでもないのです。イエスは約束をして、それを守らないようなことはありません。私たちに急に敵意を示し、拒絶することもありません。私たちに対するイエスの愛は永遠であり、時が始まる前の永遠の過去からずっと続いているのです。[9] そして、その愛から私たちを引き離すものは何もありません。[10] 今も私たちのために、父なる神の前でとりなしてくださっています。「彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである。」[11]
私たちの友であるイエスは、私たちのために最善を尽くしたいと思っているばかりか、私たちにとって何が最善であるかをご存知です。…私たちを慰め、導き、すべての嘆きを聞き、何を必要としているかを私たちよりも先に知っていて、常に私たちのうちに働き、私たちをご自身の義なるみ姿へと変えてくださいます。
イエスは、私たちが決して持ったことのない友であり、私たちが受けるに値するような友でもありませんが、私たちが必要とする唯一の友であり、完璧な友なのです。…
イエスは私たちの第一の友であり、他の人々との友情を生み出し、築いてくださる方です。私たちは、イエスからの溢れるほどの愛で愛するのです。イエスはまた、私たちの完璧な友であり、いつも愛してくださる方です。友が私たちの期待を裏切り、失望させたとしても、私たちは彼らを愛し続けることができます。なぜなら、私たち自身が完全で揺るぎない愛で愛されていることを知っているからです。古い讃美歌にあるように、「イエスは最後まで私たちとともにいてくださる」のです。—クリスティーナ・フォックス [12]
2020年8月アンカーに掲載 朗読:サイモン・ピーターソン
音楽:『Hymns on Piano: Hymns of Worship Vol. 1』より
1 箴言 18:24.〈新改訳2017〉
2 マタイ 28:20.
3 ヘブル 13:5.
4 出エジプト 33:14.
5 箴言 18:24.〈新改訳2017〉
6 ヨハネ 15:13.
7 https://www.oneplace.com/ministries/a-new-beginning/read/articles/how-to-be-gods-friend-8682.html.
8 ルカ 7:34.
9 エペソ 1:4–5.
10 ローマ 8:38–39.
11 ヘブル 7:25.
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