7月 21, 2020
第1コリント13章の愛の記述には、愛がどのようなものでないかのリストが含まれています。5節には、愛は「無作法をしない」とあります。つまり、愛はマナーが良いのです。
このギリシャ語は、直訳すると「ふさわしくない行動をしない」「不適切な行動をしない 」となります。キリスト教の愛は、問題を起こすことを求めず、他人をけなすこともありません。キリスト教の愛とは、他の人々を助けるために適切な行動や対応を選択することなのです。
今日の文化においては無作法がますます受け入れられています。一昔前では考えられなかったような公共の場での行動や言葉が、今では当たり前になっているのです。私たちは、ウォール・ストリート・ジャーナル紙のエッセイスト、メリル・マーコーの言うところの「無礼のルネサンス」に生きているのです。実際のところ、無作法は利己主義に根ざしています。マナーとは人間関係の摩擦を減らすためのものであり、無作法とは他の人への配慮が欠けていることを意味します。マナーの悪い人は、「すべては私中心」と言っているようなものです。それに対して、愛は相手の幸福を願うので、利己的にはなり得ません。ですから、愛はマナーを守るのです。
クリスチャンが自分の信じていることを証しし、信仰を擁護する時には「穏やかに、敬意をもって」[1] 弁明すべきです。つまり、私たちは愛情深く礼儀正しい方法で証ししなければならないのです。それは、クリスチャンは他の人の行為について決して否定的なことを言ってはいけないということではありません。福音のメッセージは罪を非難し、罪人に悔い改めとイエスへの信仰を呼びかけています。[2] しかし、何事にも正しいやり方と間違ったやり方があり、罪に反対する際に不快な話し方をする必要はないのです。クリスチャンは愛をもって真理を語るよう求められています。[3] そしてご存知のように、愛は無作法をしません。
妻を愛する夫は、妻に無礼な態度で接することなく、親切に、敬意をもって接します。会衆を愛する牧師は、彼らを見下すような言い方をしません。隣人を愛するクリスチャンは、マナーを守り、礼儀正しく、ふさわしい行動をとります。愛の生き方は、私たちの言葉と行動に表れ、他の人々に影響を与え、主に栄光をもたらすのです。—gotquestions.orgより [4]
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たとえ無礼な相手でも礼儀正しく接しなさい。そうするのは、相手が優しい人だからではなく、あなたが優しい人だからです。—作者不明
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優しさは、耳の聞こえない人にも聞こえ、目の見えない人にも見える言葉です。—作者不明
「マネージャーとお話しできますか?」
友人が突然、ウェイトレスにそう尋ねたので、私は驚きました。人気のピザレストランでの夕食は、特に何も問題なかったように思えたのですが、アイリーンは何を考えているのでしょう。
数分後、女性のマネージャーが私たちのテーブルに現れ、ためらいがちに「何かご用でしょうか?」と尋ねました。まるで、腹を立てた客からまたクレームがくることを予期していたかのように。
アイリーンは、まず、「今夜接客してくれたウェイトレスさんは、本当に素晴らしかったので、それをお話ししたかったんです」と言いました。それから、そのウェイトレスがした、印象に残ったことをいくつか説明したのです。
マネージャーは明らかにほっとして、喜んでいました。そばに立っていたウェイトレスも同様です。私たち4人は、数分間、笑い、おしゃべりをしました。アイリーンはそのハードワーカーの女性二人の1日を明るくしたのです。…そして、ポジティブな言葉の持つ力を、強く私に印象づけたのでした。
私たちは、自分の言葉について考えるとき、ついつい撤回したいと思うような言葉に目が行きがちです。しかし、嬉しいことに、愛と励ましを伝える言葉は、必ずと言っていいほどいつも正しいのです。—スーザン・メイシニク
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人生は短いけれど、いつだって礼儀正しくする時間はあるものです。—ラルフ・ワルド・エマーソン
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常に必要以上に優しくしなさい。—ジェームズ・M・バリー
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あなたに対しては親切でも、ウェイターには無礼な人は、いい人とは言えません。—デイブ・バリー
礼儀とは、他人に対して丁寧で思いやりのある態度を示すことです。相手の気持ちを察し、何が喜ばれるかを考えることです。
ちょっとしたことで人に親切にしたり、礼儀正しくしたり、マナーを守ったりすることは、イエスが創造された人への愛を示すことなので、それはイエスに愛を示すことでもあるのです。それはまた、イエスがどのような方であるかを他の人に示す手本でもあります。
人々は、他の人から思いやりと礼儀をもって接してもらうことを喜ぶものです。些細なことがとても重要なことがよくあり、それは相手に、自分は感謝され、大切にされていると感じさせるものです。
自分が親切で礼儀正しいかどうかを確認する簡単な方法とは、「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ」[5] という、イエスの黄金律に従うことです。—R・A・ワターソンとクリスティ・S・リンチ
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私たちは、人に触れ、微笑み、優しい言葉をかけ、耳を傾け、心から褒め、ほんの小さな行為で気遣いを示すといったことの持つ力を過小評価しがちですが、これらはすべて人生を好転させる可能性を秘めています。—レオ・ブスカーリア
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今日から、誰に会う時でも、それがその人の最期の日であるかのように接しましょう。できる限りの配慮と優しさと理解を示し、見返りのことなど考えずにそれを実行しなさい。そうすれば、あなたの人生は一変するでしょう。—オグ・マンディーノ
50年前、良いマナーは良いことだと思われていました。もちろん、すべての人が良いマナーだったわけではありませんが、マナーが良くない人は良いマナーの人に憧れたり、羨んだりしていました。
しかし、1950年代後半から、良いマナーは上辺だけ繕うのと同じことだと考えられるようになりました。その考え方は時代とともに浸透し、今では多くの人がマナーを忘れ、中にはマナーを学んだことのない人もいます。
マナーの喪失を嘆く前に、マナーとは何かをはっきりさせる必要があります。何人かの人に「良いマナーとは何か」と尋ねると、皆同じように実例を挙げて答えました。「お願いします」「ありがとうございました」と言うのは良いマナーです、女性のためにドアを開けてあげるのは良いマナーです、などなど。これらはすべて素晴らしい実例ですが、何が肝心なのかを告げてはいません。
だから、試しに一言で言ってみましょう。マナーとは「日常の愛」に他なりません。
あまり具体的ではありませんね。説明しましょう。聖書によれば、愛とは他の人を第一に考えることです。
時折、愛は犠牲を伴うこともあります。サクラメントで車が故障した友人を迎えに行くために、夜中にベッドを抜け出さなければならないこともあるでしょう。あるいは、困っている人を助けるために、ありったけのお金をつぎ込まなければならないかもしれません。あるいは誰が知りましょうか、もしかしたら、あなたは他の人のために死ななければならないかもしれないのです。イエス・キリストは言われました。「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」
これらは、愛が信者の人生に与える重大な要求です。しかし、現実を言えば、ほとんどの場合、私たちはこれらのことをするよう求められてはいません。けれども、毎日、私たちは他人を第一に考えることで愛するように命じられています。その一つの方法が、マナーなのです。例えてみましょう。
ドアの前で誰かと鉢合わせになったとします。自分から先に入ろうとするか、あるいは、ドアを開けておいて、「お先にどうぞ」と言うかのどちらかですね。一方が良いマナーで、もう一方が悪いマナーであることは、誰もが認めるところでしょう。でも、なぜでしょう。ドアを開けておくことで、あなたは他の人を優先しているのです。一方、先を急ぐのは自分を優先しているということです。
テーブルで料理を他の人に回すことと、それと対照的に、自分が欲しいものを掴み取ることも同じです。あるいは、相手が話し終えてから話す代わりに、途中で割り込むことも。また、渋滞で相手を先に行かせる代わりに自分が割り込む、車の中では音楽を小さくして、聞きたくない人が聞かなくて済むようにする、などなど。
これらのことを時間をかけて考え抜いた結果、自分を優先する実例ではない悪いマナーは、一つも思いつきませんでした。
もし、マナーが「サラダフォークの位置」や「紅茶を飲むときに小指を立てること」だけだとしたら、そんなものはあまり重要ではないでしょう。間違えたとしても、うるさい人は怒るかもしれませんが、害はありませんし、神が不快に思われることもないでしょう。
しかし、良いマナーは習慣やエチケット以上のものです。それは愛の実なのです。つまり、良いマナーはとても大切だということです。主は、あなたがすることの中で2番目に重要なこととは、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛する」ことだと言われました。良いマナーとは、実生活の些細なことで、それを実行するための方法なのです。—マイケル・フィリップス [6]
2020年7月アンカーに掲載 朗読:ガブリエル・ガルシア・バルディビエソ
音楽:ダニエル・ソッジ
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