6月 2, 2020
わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。—ヨハネ3:2
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イエスの教えは、たとえ世界中の多くの人々がいまだにその教えの外側にいるとしても、またイエスを信じる者の多くがそれを完全に実践することに関心を持たないか、そのための勇気がなかったとしても、他のどの教師が持つ影響とも、少しも比べものにならないほどの力と影響力を持ってきました。イエスは唯一無二の偉大な教師なのです。福音書の読者は、イエスがご自身の時間と労力の大部分を、布教に対して捧げたことに感銘を受けざるを得ません。…イエスの教え全体の主要な特徴は、それが自然で自由だったことです。…
そして、イエスが教師であったこと、生まれながらの教師であり、教師の君であったことは確かですが、教師をはるかに超えた存在でもあったことを決して忘れてはなりません。…イエスご自身はその教えをはるかに超えた方であり、救うのはキリストの教えではなく、それを教えるキリストだからです。…イエスが来られたのは福音を宣べ伝えるためだったというよりも、むしろイエスが来られたゆえに、宣べ伝えるべき福音が生じたのでした。—ジェームズ・スチュワート [1]
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主ご自身の教えは、いささかも欠けたところはないものの、私たちが期待したり望んだりしたであろうような、型にはまった、誤解の余地なく、体系的な方法で与えられていないことが分かるでしょう。主は本を書かれませんでした。私たちにあるのは、主が言われたとされる言葉だけであり、そのほとんどは質問に対する答えで、ある程度質問の内容次第の言葉です。そして、それらをすべて集めても、一つの体系にまとめることはできません。主は宣べ伝えますが、講義はしません。また、パラドックス、ことわざ、誇張、たとえ話、反語、さらには(不遜な意味ではなく)「気の利いた皮肉」さえも用いるのです。よく知られている箴言のように、文字通りに受け止めれば互いに矛盾しているように思える格言も口にします。したがって、主の教えは、知性のみで把握できるものではないし、講義科目であるかのような体系化もできません。もし、そのようなことをしようとすれば、主は最もとらえどころのない教師だということになるでしょう。主は、率直な質問に対して率直な答えを与えることがほとんどありませんでした。私たちが望むような方法で明確に説明するよう、主に迫ることはできないのです。そうしようとしても、それは(これも不遜な意味ではなく)太陽の光を瓶に詰めようとするようなものです。—C・S・ルイス [2]
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聞く人々はみな、イエスの賢さやその答に驚嘆していた。 —ルカ2:47
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イエスがこれらの言を語り終えられると、群衆はその教にひどく驚いた。それは律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。—マタイ7:28–29
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そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて…。—ルカ24:45
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彼らは互に言った、「[イエスが]道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか。」—ルカ24:32
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教師また伝達者としての[イエスの]特別な才能は、そのたとえ話にありました。それらは一つ一つがそれ自体完結している、生き生きと描かれた短い物語です。日常生活に即した語法と比喩が用いられているので、それらは容易く、すぐに理解できるものであり、素朴で読み書きのできない人々の関心を引きつけることができました。それは、神秘的あるいは知的なテーマがそれまで決してなしえなかったことだったのです。…それらは、2000年前のイエスの生活がどのようなものであったか、イエスがさまざまな物や人々にどう反応したか、何がイエスの目を引き、イエスが何に興味を抱いたかといったことを、他の何ものにもできないような方法で感じ取らせてくれます。語り手がどんな方であるかに気づかない人は誰もいません。そのたとえ話は、鋭い洞察を持ち、しばしば反語を用い、素晴らしく創造的である知性から生み出されていることが感じられるのです。…
イエスご自身、ご自分の伝えたいことは、教養のある人よりも素朴な人の方が理解しやすく、主を理解するには幼子のようにならなければならないと力説されました。—マルコム・マゲリッジ [3]
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イエスの教えは権威に満ちていましたが、決して威圧的な意味で、説教的、独断的、あるいは同意を強要するようなものではありませんでした。福音書のページをめくるたびに、一つの事実が目を引きます。それは、イエスが教えておられた人々への極めて驚くべき忍耐であり、彼らに強制したり、あごで指図したり、自分の意志に従わせたりすることを決してしようとせず、彼らの人格を圧倒的に尊重する姿勢でした。…
弟子たちに対するイエスの教え全ての基調となっているのは、「わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。…わたしはあなたがたを友と呼んだ」ということでした。[4] …「これが真理だ。受け入れなければ滅びる」ではなく、「わたしは真理である、わたしと共に生きなさい、そうすれば真理を見つけることができる」というものだったのです。…
イエスの教えの大原則は、教える相手への親密さと愛にあります。アウグスティヌスは、「愛に満ちた一つの霊は、他の霊を燃え立たせる」と言いました。これが昔も今も、教師としてのキリストの神聖な成功のための究極的な秘訣です。キリストの愛情深い霊から、弟子たちの霊へと絶えず火が移っていたのであり、その互いへの愛の炎のうちにあって与えられた教えは、退屈な訓練ではなく、喜びとロマンと栄光となりました。…
イエスは兄弟を自分の横に並べられます。…イエスは彼らが示すことのできる信仰そのままで、彼らをありのままに受け入れます。イエスはスタートとして、それで満足されます。そこから始めて、その「友」たちを、ご自分が何者であるかの奥義、そして弟子としての完全な栄光へと、一歩一歩導いていかれたのです。—ジェームズ・スチュワート [5]
編集:ウィリアム・B・マグラス 2020年6月アンカーに掲載
朗読:ジョン・ローレンス
1 James Stewart, The Life and Teaching of Jesus Christ (New York: Abingdon Press, 195?), chapter 8.
2 C. S. Lewis, Reflections on the Psalms (San Diego: Harcourt, 1958), 113.
3 Malcolm Muggeridge, Jesus, the Man Who Lives, Part 3.
4 ヨハネ 15:15.
5 Stewart, The Life and Teaching of Jesus Christ, chapter 8.
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