罪はなぜ問題なのか

5月 18, 2020

Why Sin Matters
May 18, 2020

ピーター・アムステルダム

オーディオ所要時間:10:19
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罪は大切なテーマです。罪はすべての人の人生に影響を与え、また、人を神から隔てたものだからです。感謝すべきことに、神は私たちを愛し憐れみをかけて下さったので、イエスが苦しみ死なれることによって、人が救いを手にすることができるようにして下さいました。

ルーファス・ジョーンズは、罪について次のような説明をしています。

罪は、抽象的なドグマではなく、支払をして清算できるような負債でもありません。罪は、私たちの人生に存在する現実です。それは心と意思の状態です。罪を罪びとから切り離して考えることはできません。罪が存在するところでは、誰かが意識的に基準から逸脱して、その人の本質が落ちており、その影響は人格全体に及びます。罪を犯す人は、正しいことについての感覚に背いています。善についての自分自身のイメージより劣ることをしています。行くべき道を見ながら、そちらに進むことをしません。声が聞こえても、「イエス」ではなく「ノー」と答えるのです。より高い次元の自己が訴えかけていることに気づいているのに、より低い次元の自己にやりたい放題にさせています。罪に関する描写と言えば、ローマ7章9–25節で使徒パウロが自分の経験に基づいて力強く語ったことに勝るものはありません。それを読んでいて心が動かされるのは、私たち自身の状態が描かれている次の箇所です。それは、低い次元の自己が人生を牛耳り、台無しにしている姿です。「自分でしたいと思うことを行わないで、したくないことを行っている。」[1]

旧約聖書で罪をあらわすために最もよく使われるヘブル語の言葉は「ハッター」で、その定義は「目標から外れる、正しい道・歩むべき道から外れる、的を外す、道を踏み外す」です。旧約聖書で使われる他の言葉は、違反(神との契約を破るという意味で)、神の御心に反する、そむく、迷い出る、といった意味に訳されています。

新約聖書では、罪をあらわすのに様々な言葉が使われており、破る、違反、踏み越える、的を外す、限度を超える、踏み外す、失敗、不正、正しい道から外れる、道をそれる、真理や正義から外れる、悪意・悪事、不法、不敬虔、不信心、反抗的な不従順、それる、といった意味に訳されています

神学者たちによる罪の定義をいくつか挙げます。

罪は、人が神とその御心に背を向ける行為であると定義することができます。それは、神の律法に違反し、…神の戒めを破ることです。神が示された御心に背を向けることなのです。[2]

罪とは、行動・態度・性質において、神の道徳律を守らないこと全てを指します。[3]

神は聖書を通して御心と道徳律をお伝えになっていますが、聖書がまだ存在していなかった時代があります。また、聖書について聞いたことも読んだこともない人や、聖書には神やその御心についての真実が書かれていると知らない人が、大勢います。しかし、いつの時代でも、人は生まれながら神の道徳律をある程度知っています。なぜなら、神がそれを一人一人の心の中に植えつけて下さったからです。

「律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである。彼らは律法の要求がその心にしるされていることを現し、そのことを彼らの良心も共にあかしをして、その判断が互にあるいは訴え、あるいは弁明し合うのである。」[4]

多くの人は、聖書に記されているような神の道徳律をはっきりと知りません。しかし、すべての人が、殺人や盗み、嘘をつくことなどは間違っているということを基本的に理解しており、それは、人間には全般的な道徳意識が備わっているという証拠です。こうした理解力は、しばしば自然律とか道徳律とか呼ばれ、十戒に含まれるものです。[5]

人間は自分の内にある道徳律を直感的に知っているので、正邪の観念や道徳責任の意識があります。「彼らの良心も共にあかしをして」いるわけです。神は聖書の中で道徳律と御心をお伝えになったし、全ての人は直感的に道徳律を知っていて、道徳律を破った時にはその証しをする良心があります。それはすなわち、聖書を知っていても知らなくても、全ての人が、自分は道徳律を守り切れず、それに違反するものであり、かつそれは間違いであるということに気づいていることを意味します。

最初の罪

アダムが、善悪を知る木から取って食べてはいけないと言われた時、神は具体的な理由は与えず、ただ、そうすれば深刻な結果が生じることをお告げになっただけです。アダムは、喜んで神の戒めに従い、自分の思いを創造主の御心に委ねるという気持ちを表せる立場にありました。これは、何が正しいのかを神に決めていただくか、あるいは、自分で決めようとするか、そのどちらをするかのテストとも言えます。

アダムとエバの最初の罪には、罪の本質が表れています。二人は神の御心に反抗して、それに自分の考えを従わせることなく、むしろ自分にとって最大の利益であると感じたことを行いました。自分にとって何が最善であるのかを神に決めていただくことをしなかったのです。

ルイス・ベルコフは、その点を次のように説明しています。

その罪の本質は、アダムが自分を神に反対する立場に置いたということにあります。また、自分の思いを神の御心に委ね、人生行路を神に決めていただくのを拒否したこと、状況を神の御手から奪って、自分で未来を決めようと積極的に企てたことにあるのです。[6]

神は自分の創造主であり、それゆえに自分は神に従属する身なのだということを受け入れる代わりに、二人は自分たちが神の立場にあろうという誘惑に身を委ねました。神は、彼らがそれを取って食べると、きっと死ぬとおっしゃいました。蛇は、彼らは死ぬことがないと言いました。神は真実を語られたというのに、彼らは神の言葉を信ぜず、誰が正しいのかと疑問を持ちました。

アダムとエバが、自分たちは神に従属しない、何が正しいのかについて神の決定を認めない、神を信じない、といった決断を下したことは、それ以降の人類史において個人が犯してきた罪の根本的原因を象徴するものです。最初の二人がそうだったように、人間は皆、罪の誘惑にかられるし、誰もがそのような誘惑に委ねることがあります。そうすることで、私たちは皆、神に対して、アダムとエバがしたような行動をしていることになります。

最初の罪を犯すまで、アダムとエバは神と調和して生きていました。神との交わりを楽しみ、神を信頼し、信じていました。しかし、自由意志によって神に従わないという決断を下したときに、それは変わりました。自分たちだけではなく、全人類にとって変わったのです。この罪の結果が人間の堕落であり、それ以来、人類は以前とは同じではなくなりました。

人類は神の御前に罪ある状態です。それは、アダムとエバの罪が私たち全員に帰せられているからであり、私たち個人が罪を犯すからでもあります。罪びととして、私たちは神から隔てられています。肉体的な死を迎え、御前で罪ありとされ、自らの罪ゆえに罰を受けるに値します。

神は、人類への愛ゆえに、人が赦され、ご自身と和解し、その怒りを免れるための方法を作り出してくださいました。

「このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。…もし、ひとりの罪過によって、そのひとりをとおして死が支配するに至ったとすれば、まして、あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている者たちは、ひとりのイエス・キリストをとおし、いのちにあって、さらに力強く支配するはずではないか。このようなわけで、ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである。すなわち、ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪人とされたと同じように、ひとりの従順によって、多くの人が義人とされるのである。」[7]

イエスを通して神と和解すること、罪が赦されること、あがなわれることは、人が受け取れる最高の贈り物です。神の御手から直接与えられる個人的な贈り物なのです。それは私たちが今生きる人生を変えるだけではなく、永遠に渡って変えてくれるものです。一人一人が受け取っている贈り物であり、他の人にも回すように言われているものです。それは良き知らせであり、私たちはそれを他の人にも伝えるようにとの任務をいただいています。そうすることで、その人たちも罪の支配から解放され、永遠の神の子ども、愛情深く恵み深く憐れみ深い神の子どもとなれるのです。

初版は2012年9月 2020年5月に改訂・再版
朗読:ガブリエル・ガルシア・バルディビエソ


1 Rufus M. Jones, The Double Search—Studies in Atonement and Prayer (Philadelphia: John C. Winston Co., 1906), 60–61.

2 J. Rodman Williams, Renewal Theology, Systematic Theology from a Charismatic Perspective, Vol. 1 (Grand Rapids: Zondervan, 1996), 222.

3 Wayne Grudem, Systematic Theology, An Introduction to Biblical Doctrine (Grand Rapids: InterVarsity Press, 2000), 490.

4 ローマ 2:14–15.

5 出エジプト 20:13–17.

6 Louis Berkhof, Systematic Theology (Grand Rapids: Wm. B. Eerdmans Publishing, 1996), 222.

7 ローマ 5:12, 17–19.

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