12月 13, 2021
イエスの誕生物語を告げるにあたって、ルカ書はまず、イエスの親戚であり、メシアの先駆者となる洗礼者ヨハネの誕生物語を語ります。ルカは旧約聖書との関連性を多数持ち出して、イスラエルに対する神の約束と、イエスの誕生によるそれらの約束の成就とを結びつけています。
私たちは、エリサベツという妻を持つザカリヤという名の祭司が、モーセの兄でありイスラエル初の祭司であるアロンの子孫であることを知ります。ザカリヤとエリサベツは「ふたりとも神のみまえに正しい人であって、主の戒めと定めとを、みな落度なく行っていた。ところが、エリサベツは不妊の女であったため、彼らには子がなく、そしてふたりともすでに年老いて」 いました。[1]
聖書の時代においては、子どもができないことは神に罰されたしるしであり、恥の種として見られることがよくありました。[2] しかし、ザカリヤとエリサベツの状況は、イスラエルの歴史を通して見られる、ずっと不妊であったものの神の介入によって子どもを産んだという、義人の夫婦らに通じるものがあります。つまり、アブラハムとサラ、エルカナとハンナ 、イサクとリベカ、ヤコブとラケル 、サムソンの両親です。
ザカリヤは祭司として、年に2回、神殿で奉仕しました。
ザカリヤはこの年、「祭司職の慣例に従ってくじを引いたところ、主の聖所にはいって香をたくことに」 なりました。[3] 神殿での日課のひとつに、朝の燔祭の前と、夕の燔祭の後に香をたくことがありました。祭司にとって、この犠牲を捧げることは大いなる栄誉であって、各祭司は一生に一度しかこれをすることができませんでした。この栄誉を受ける祭司はくじ引きで選ばれ、このようにして、選ばれた祭司は神に選ばれたと見なされました。
香壇は聖所の中に置かれており、神が宿っておられるとされていた至聖所とは、分厚い幕で仕切られていました。ザカリヤにとっては、至聖所と幕一枚だけで隔てられた所で香をたく機会というのは、大祭司を他にしてはいかなる人も行くことのできない、神のいます所に最も近い場所に行くことを意味していました。それは大いなる栄誉だったのです。[4]
ザカリヤが聖所にいると、「主の御使が現れて、香壇の右に立った。ザカリヤはこれを見て、おじ惑い、恐怖の念に襲われた。」[5]
御使いはザカリヤに言いました。「恐れるな、ザカリヤよ、あなたの祈が聞きいれられたのだ。あなたの妻エリサベツは男の子を産むであろう。その子をヨハネと名づけなさい。彼はあなたに喜びと楽しみとをもたらし、多くの人々もその誕生を喜ぶであろう。彼は主のみまえに大いなる者となり…。」[6] 旧約聖書で神が子どもに名をお付けになるのは、救いの歴史において大きな意味を持つ人物の場合が多かったのです。多くの人々もその誕生を喜ぶ、また、彼は主のみまえに大いなる者となる、という言葉からしても、彼が救いのための神のご計画において重要な役割を担うようになるということは確かでした。
御使いはザカリヤに、子どもの将来について、あることを告げます。
「[ヨハネは]イスラエルの多くの子らを、主なる彼らの神に立ち帰らせるであろう。彼はエリヤの霊と力とをもって、みまえに先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に義人の思いを持たせて、整えられた民を主に備えるであろう。」[7]
ヨハネが将来果たす役割は、多くの人を主に向かせることで国民に霊的な和解をもたらす務めを負う、預言者としてのものでした。彼がエリヤの霊をもって来るということは、400年ほど前にマラキ書で神がされた約束の繰り返しです。
「見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる。これはわたしが来て、のろいをもってこの国を撃つことのないようにするためである。」[8]
ヨハネの目的は、人々を悔い改めに至らせて、主の到来のために備えることでした。メシアや救出を待っている期間は終わりつつあったのです。
この時、ザカリヤは御使いに尋ねます。
「どうしてそんな事が、わたしにわかるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」[9]
これは、ザカリヤが幾らか疑いを抱いていることを表しています。これに対して、御使いはこう答えます。
「わたしは神のみまえに立つガブリエルであって、この喜ばしい知らせをあなたに語り伝えるために、つかわされたものである。時が来れば成就するわたしの言葉を信じなかったから、あなたは口がきけなくなり、この事の起る日まで、ものが言えなくなる。」[10]
確証のしるしとして、ガブリエルは、ザカリヤは告げられたことがすべて実現するまでは口がきけなくなると言いました。
神殿の務めの期間が終わり、ザカリヤは家に戻ります。そして、しばらくして、ガブリエルが言った通りエリサベツが身ごもったことを、私たちは知ります。エリサベツは、妊娠したことがわかると、賛美と感謝でそれに応えました。「主は、今わたしを心にかけてくださって、人々の間からわたしの恥を取り除くために、こうしてくださいました。」[11] 彼女の喜びは想像に難くありません。
そして物語は、御使いガブリエルがザカリヤの所に訪れてから6ヶ月後まで飛びます。今回、ガブリエルはユダヤの北にあるガリラヤ地方のナザレという町に送られました。メシアの母になるという託宣をマリヤに伝えるためでした。
マリヤは、「彼は大いなる者となり、いと高き者の子と、となえられるでしょう。そして、主なる神は彼に父ダビデの王座をお与えになり、彼はとこしえにヤコブの家を支配し、その支配は限りなく続くでしょう」 と告げられます。[12] ここで伝えられた内容や、いと高き者の子と呼ばれるということを聞いて、マリヤはおそらく、自分の息子はイスラエルの王になるという意味だと思ったことでしょう。[13] イエスの人生が展開するにつれ、その役割は、待ち望まれていたユダヤ人メシアについての一般的な期待とは非常に異なったものであることが明らかになっていきます。イエスはむしろ、神の子であるということが、わかるのです。
ガブリエルの訪問の直後、奇跡によって救い主の母になることを受け入れる決断をしたマリヤは、「立って、大急ぎで山里へむかいユダの町に行き、ザカリヤの家にはいってエリサベツにあいさつした」 とあります。[14]
御使いはエルサレム神殿の、しかも至聖所のすぐ隣りにある聖所でザカリヤに現れました。けれども、マリヤに現れたのは、ユダヤ人の信仰の中心地から遠く離れたガリラヤでした。神は新しいことをなさっていたのであり、福音書の物語が進展するにつれ、神殿から神の御子へと焦点が移っていくのがわかります。ブラウンは、こう述べています。
「もし、エルサレム神殿で祭司ザカリヤに現れたのが、旧約聖書における慣行の続きのしるしだとするならば、旧約聖書で期待されていることとは何ら関係のないナザレの町でガブリエルがマリヤのもとに来たのは、神が全く新しいことをされていたというしるしだったのです。」[15]
マリヤは到着すると、エリサベツにあいさつをしました。「エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、その子が胎内でおどった。エリサベツは聖霊に満たされ、声高く叫んで言った、『あなたは女の中で祝福されたかた、あなたの胎の実も祝福されています。主の母上がわたしのところにきてくださるとは、なんという光栄でしょう。ごらんなさい。あなたのあいさつの声がわたしの耳にはいったとき、子供が胎内で喜びおどりました。主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう。』」[16]
そのあいさつを聞いて、エリサベツのお腹の中の子は喜びおどり、エリサベツは聖霊に霊感されて、声を上げてマリヤとそのお腹の子を祝福しました。エリサベツはマリヤよりも目上であると見なされるわけですが、今、自分をしもべの立場に置いて来客をたたえ、彼女を「主の母上」と認め、「女の中で祝福されたかた」と呼んだことで、マリヤが神に祝福された身であるというガブリエルの託宣を確認しています。[17]
マリヤはそれに対して、マニフィカトとして知られる、美しい賛歌で返します。
「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救主なる神をたたえます。この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。今からのち代々の人々は、わたしをさいわいな女と言うでしょう、力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださったからです。そのみ名はきよく、そのあわれみは、代々限りなく主をかしこみ恐れる者に及びます。主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。主は、あわれみをお忘れにならず、その僕イスラエルを助けてくださいました、わたしたちの父祖アブラハムとその子孫とをとこしえにあわれむと約束なさったとおりに。」[18]
詩篇にある他の賛歌と同様、これも3つの部分に分かれています。1) 神への賛美の前置き。2) 賛美の理由を述べた賛歌の主部。3) 結び。
マリヤは3ヶ月ほどエリサベツの所に滞在しました。おそらく、エリサベツの妊娠後期の数ヶ月間を助けていたことでしょう。救いの歴史においてあれほど重要な役割を果たした2人の女性は、子どもたちの誕生に先だって、お互いを励まし、助け合うことができました。エリサベツと一緒にいた期間は、マリヤが郷里に戻ってヨセフに自分が妊娠していることを説明する時に起こるであろうことのために、マリヤを強めたに違いありません。
初版は2014年12月 2021年12月に改訂・再版
朗読:ジョン・ローレンス
1 ルカ 1:6–7.
2 参照:創世記 29:31; 30:1, 22–23; サムエル上 1:5–6.
3 ルカ 1:9.
4 Joel B. Green, The Gospel of Luke (Grand Rapids: William B. Eerdmans Publishing Company, 1997), 70.
5 ルカ 1:11–12.
6 ルカ 1:13–15.
7 ルカ 1:16–17.
8 マラキ 4:5–6.
9 ルカ 1:18.
10 ルカ 1:19–20.
11 ルカ 1:25.
12 ルカ 1:32–33.
13 Green, The Gospel of Luke, 81, 60.
14 ルカ 1:39–40.
15 Raymond E. Brown, The Birth of the Messiah (New York: Doubleday, 1993).
16 ルカ 1:41–45.
17 Green, The Gospel of Luke, 81, 94.
18 ルカ 1:46–55.
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