風と走る

3月 17, 2020

Running with the Wind
March 17, 2020

引用文集

オーディオ所要時間: 11:04
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私は数カ月前に、神が私を召しておられるとわかっていた御仕事から歩き去り始めました。ただ懸命に努力することに疲れてしまったのだと思います。考えてみると、歩き去ったというよりも、歩くのをやめてしまったのです。どんな競争でも、走るのをやめるなら後ろに取り残されてしまいます。私は無意識のうちに、自分にこう問いかけていました。そもそもなぜ最初に走ろうなどと思ったのかと。私は他の人を追いかける興奮を忘れてしまい、考えられることといえば、アスファルトがどんなに熱いかということだけでした。

私は立ち止まって一息ついていただけなのに、今や先頭集団はいなくなり、ずっと遠くに行ってしまいました。自分がずっと後ろに取り残されてしまったように感じます。けれども、私は自分の傍らに、ある力を感じています。それは私の弱い性格にもかかわらず、いつもそばにいて背中を押してくれた、トレーナーであられる神の声です。なぜ神は、まだ気にかけてくださるのでしょう? 私が敗者で脱落者であることがわからないのでしょうか? それだけではありません。私は神との約束を、また他の走者やスポンサーやファンや友人や家族といった、他の人々との約束を守りませんでした。自分自身との約束もです。

神は私に、それらのどれ一つとして重要ではない、と言われます。私に求めているのは、今まで走ってきた過酷な数キロという過去を忘れて立ち上がり、再び走るだけであると。私は神に、そんなことはできないと言います。この競争を最後まで走りきることはできませんと。

神は私に、力を与えようと言われます。そして私が飲めるよう、一杯の冷たい水を下さいます。それはとてもおいしく、私は自分がこの元気づけてくれる水を飲むのをやめてしまっていたことに気づきます。自分にはそうする時間がないと思っていたのです。

神は言われます。最後まで走れるよう、私のペースメーカーになって下さると。私はこう反論します。「でも、自分でももっと頑張らないと勝てません。」

神は、私がトロフィーよりも価値あるもののために走っていることを思い起こさせて下さいます。他の走者を負かすために走っているのではないことを。むしろ、旗をゴールまで持って行くという、その大義のために走っているのです。この競争を走り始めたのは、途中で投げ出してしまうためではありません。

コップは今空っぽで、私の渇きはいやされました。そして今は、再び走り出すべき時です。私は自分が木の下に座り込んで無駄にした時間のことに気づいてはいますが、今も心のどこかで、戻って行ってまた座りたいと叫ぶ声がします。道路上は木陰より5度も気温が高いですから! しかし、だからといって座っていてもいいのでしょうか? 「私は走るために生まれてきたのだ!」 自分にそう言い聞かせますが、まだ走り出す気になれません。「神を失望させるわけにはいかない!」 自分を納得させようと試みますが、まだ木陰から出ることができません。

その時です、あたりを吹きめぐるそよ風に乗って、それが聞こえてきたのは! ただ次の角を曲がったところで、彼らが私を手招いています。過去の競争を走り抜いた、あのチャンピオンたちが。いえ、柵のすぐ向こうでカクテルをすすっている行楽客ではありません。その声は一般観覧席よりもずっと高いところから聞こえてきます。そこは私たちよりも先に行った人々、すなわち既に代価を支払い、競争を走り抜いた、誉れや称賛を受けるにふさわしい人々のための指定席です。

彼らは私を呼んでいました。いえ、私の名を叫んでいたのです。「風と走りなさい!」 彼らは私にそう言いました。

今がその時だ! 私の心臓は高鳴りますが、またためらってしまいます。果たして完走できるでしょうか?「できるとも。」 私のトレーナーがそう断言します。「あなたにはわたしがついている。最後まで導いてあげよう。努力ではなく、ゴールに目を留めなさい。そして何よりも、自分にがっかりしてはいけない。結局のところ、大切なのは投げ出さないことだけだからだ。」

常にそうであるように、第一歩目が一番難しいのです。しかし、私はどうにかしてやり遂げます。そして信じています。「忍耐強く走り抜け」と言われた時、神はこのことを意味しておられたのだと。再び走り始めた今、一歩一歩が、前の一歩よりも何となく軽く感じられます。私にはできると思います。いえ、私たちで一緒に、これをやり遂げられるとわかるのです。—ジョン・ケリー

決定的瞬間

4年ごとに開催されるワールドカップほど、世界中の関心を集めるイベントはあまりありません。2006年の決勝戦の推定視聴者数は約7億1千500万人で、予選段階を含めた全体的な視聴者数の合計は260億人以上で、それは世界のすべての人が4回ずつ視聴した数に相当します。普段はスポーツにほとんど、あるいはまったく関心を示さない人々でさえ、ワールドカップの結果が新聞の第一面に載ると、関心を引き付けられます。

サッカーにどれほど関心を向けているかや、お気に入りのチームがどのくらい強いかにもよりますが、私たち観客は大体1年の準備期間と、2時間ほどの決勝戦を経て、数日間のお祝いをし、その後また通常の生活に戻ります。しかし選手やコーチや他の最も緊密にかかわっている関係者たちにとって、ワールドカップは決定的瞬間であり、長年夢見、計画し、犠牲を払い、懸命に努力したことの集大成なのです。

それは決定的瞬間ではあるものの、それが彼らの人生のすべてでもなければ、最終目標でもありません。ワールドカップに出場し、そこで勝ち残ることだけを考えている時には、きっとそのように見えるでしょうが。それはただ、人生の大きな節目であり、新たな始まりの一つにすぎないのです。

本当のテストはこれから始まります。敗者はどうやって敗北を受けとめるのでしょう? あきらめてやめてしまうのでしょうか、それとも頑張って、おそらくは次回勝つでしょうか? 勝者にはどのような機会の扉が開かれており、彼らは成功をどのように扱うでしょうか? サッカー界でさらなる幸運をつかむためにそれを使うでしょうか、あるいはサッカー後にできる別の仕事を確保するでしょうか、あるいは自分たちにとって大切な大義を促進するでしょうか? これから数カ月や数年経てば、あの有名人たちの真の姿がわかることでしょう。

そして私たちもそれと同じです。世界中の脚光を浴びる運動選手ではないかもしれませんが、毎日が本当の自分は何者なのかを突き止めて、どんなことで人に知られ、覚えておいてもらいたいかを決めるもう一つの機会なのです。毎日を決定的瞬間にできます。私たちがそれを、決定的瞬間にしようと決めるならば。—キース・フィリップス

競争を走り抜く忍耐

2時間5分10秒。これはケニアのサムエル・ワンジルが、2009年4月のロンドンマラソンで42.195kmを走り、一番最初にゴールするのにかかった時間です。

13日間。これは英国の兵士で、脊髄損傷によって下半身が不自由になったフィル・パッカー少佐が同じマラソンを完走し、36,000人の競技者の中で一番最後にゴールするのにかかった時間です。このような忍耐の離れ業により、慈善団体に60万ポンド(約9千万円)が集まりました。

ワンジルはそのスピードゆえに新聞の大見出しを飾りました。パッカーはスピードではなく、その勇気と意志の強さによって大見出しを飾りました。レースの終盤には、千人もの群衆が彼の到着を出迎えるために集まりました。彼は不利な条件をものともせずにそれに参加したばかりか、それを完走したのです。1年前に負傷した後、彼は決して歩くことができないだろうと言われていました。事実、彼が杖を用いて再び歩くことを学んだのは、マラソンのほんの1カ月前のことだったのです。

どちらの男性も、自分たちが成し遂げたことゆえに敬意を表されましたが、パッカーの偉業には特別な何かがありました。毎日2マイル(約3.2キロ)歩くのにかかった6時間は彼を疲れ果てさせる苦しいものでしたが、その間も一人になることはありませんでした。スタート地点からゴールに至るまで、友人と見知らぬ人々からなる支持者たちが、そのコースで彼と共にいて、一緒に歩き、励まし続けたのです。彼のウェブサイトのお祝いのメッセージには、チャールズ王子(皇太子)からの称賛のメッセージもありました。

人生の道は常に容易なものとは限らず、時々一見克服不可能に思われるような障害に面します。しかし、私たちは一人で歩んでいるのではありません。私たちにも家族や友人といった支持者たちがいて、道すがら励ましてくれるのです。そして私たちにも、支援してくれる王子がいます。この世の王子ではなく、平和の君であられるイエスが。イエスは私たちが状況を克服し、不利な条件下にあって耐え忍び、困難を乗り越えて勝利できるよう助けると約束して下さいました。「わたしの恵みはあなたに対して十分である」とイエスは言われます。「わたしの力は[あなたの]弱いところに完全にあらわれる。」[1] ですから、「自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。」[2]マージ・バンクス

2020年3月にアンカーに掲載 朗読:ジョン・ローレンス
音楽:ジョン・リッスン


1 2 コリント 12:9.

2 ヘブル 12:1–2.〈新共同訳 ヘブライ書〉

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