なぜ傷を隠すべきなのか

7月 8, 2020

Why Should We Hide Our Scars?
July 8, 2020

スティーブ・ハーツ

誰にでも、傷跡の残るような経験はあるし、それが体の傷であれ、心の傷であれ、人に知られたらどう思われるだろうと恐れて、隠したくなることもよくあります。傷と言っても、恥ずかしくて隠したくなるようなことなら何でもそうです。たとえば、忘れようとしてきた過去の痛み、心に抱く葛藤、自分の体で自信のない部分なども、そういった「傷」に含まれるわけですが、私は生涯を通して、傷は隠すよりもオープンにした方が、ずっと自由になれると学んできました。恥ずかしく思う必要はないと知った、そんな傷の一例をあげたいと思います。

もう何年も前のことですが、私はある大学で、学生たちを前に演奏したことがあります。演奏が終わると、観客の若い女性が私のところに来て、いいプログラムでとても楽しめたと言ってくれました。そして、思いがけないお願いをされたのです。「ちょっとサングラスを外してもらえませんか。目が見たいわ。」

私は物心ついた頃から、外出する時には、主に目の保護のためと、目が不自由なことを人に気づいてもらえるよう、いつもサングラスをかけているのです。目が見えないことを恥じてはいなかったけれど、全く見知らぬ人から目を見せてほしいと言われたのは初めてでした。少し動揺しましたが、自分にこう言い聞かせました。〈別に大したことじゃないさ。この人に良いところを見せたいわけではないし、どちらにせよ、会うことはもうないだろうから。〉

サングラスを外してみると、そうされているのが見えるわけではないけれど、彼女が私の目をかなりよく観察しているのを感じ、どんな反応があるだろうと身構えました。何分も待ったような気がしましたが、実際には1分も経っていなかったことでしょう。そしてついに、彼女がこう言ったのです。「きれいな目ですね。隠すことなんてないのに。」 彼女とは二度と会うことがなかったけれど、その言葉を忘れたことはありません。

それから数年後、ネットである女性と連絡を取るようになったのですが、それが今のガールフレンドです。最初の数ヶ月はGoogleハングアウトでチャットしていました。それからSkypeで通話することにしたのですが、初回は音声のみでした。ビデオ通話なんて、思いもしなかったのです。次はビデオ通話をしたいと彼女から言われた時には、そうしようと答えたものの、やや緊張しました。

そして、ビデオ通話の前に、単にいつもの習慣でサングラスをかけました。演奏の時は、そうすることで見た目がよくなると思うし、今回も、できるだけいい印象を与えたかったことは確かです。しかし、残念なことに、最初に少し言葉を交わしたところで、「あなたの目を見たいわ。サングラスを取ってくれないかしら」と言われてしまいました。

気乗りはしなかったけれど、承諾しました。彼女は以前に私の動画を見たことがあるけれど、その時はサングラスをしていたので、サングラスなしの姿を見て彼女がどう反応するか心配だったのです。大学では大丈夫だったけれど、今回は緊張が拭えませんでした。あの時の女性とは違って、今私が話しているのは、これからいい関係を築いていきたいと望んでいる人だったからです。この瞬間でその行く末が決まると確信しました。でも、これは起こるべくして起きたことなので、先延ばししたってなんの役にもたちません。

サングラスを外すと、私がじっくり観察されていたのは、今回も明らかでした。でも、彼女はこう言ってくれたのです。「きれいな目ね。私と話す時には、サングラスなんていらないわ。」

その数ヶ月後、私は飛行機に乗って、初めて彼女に会いに行きました。前にあげた理由から、飛行機の中ではサングラスをかけていたのですが、何も隠す必要はないと分かっているので、出迎え口に着く前には外し、彼女はそれをとても喜んでくれました。

今でも外出の時には目の保護のためにサングラスをかけますが、演奏していて求められる時には、外すのを恥ずかしく思ったりしません。

最近、短いけれど感動的な話を聞きました。いい思い出になる傷跡もあり、それが私たちにとって、どれほどかけがえのないものとなりうるかを教えてくれる話です。ある男の子が家の近くの池で泳いでいた時に、ワニに襲われました。少年が足を食いつかれて大声で叫ぶ声を耳にした母親は、家から飛び出して息子のところへ急ぎ、その両腕を必死につかみました。叫び声を聞いた隣人がピストルを持って駆けつけ、ワニを撃ち殺すまで、母親は爪が息子の皮膚に食い込むほどに全力でつかんだのです。

少年が回復中に、ある新聞記者が会いに来て、ワニに噛まれた足の傷跡を見せてくれないかと頼みました。少年はズボンの裾を上げてそれを見せましたが、それからこう言いました。「それよりも、こっちの傷を見てほしいな。」 そう言いながら、シャツの袖をめくり、母親が必死につかんだためにできた爪の跡を見せたのです。「この傷はね、お母さんが僕を離さないでいてくれたしるしなんだ。」

考えてみれば、イエスにも傷跡がありました。奇跡的に復活された後でも、両手に釘の跡があり、脇腹は槍で刺されて穴が開いていたのです。それを治して消すことだって、全く問題なくできたはずなのに、そのままにしておいたばかりか、以前に約束していたとおり実際に復活したことを証明するため、その傷を弟子たちに見せるのをいとわれませんでした。

イエスがご自身の傷を恥ずかしく思われなかったのであれば、私たちだって、それが何であれ、自分の傷を恥じる必要はないでしょう。私たちの内にある真の美しさを、たとえそれが痛みに包まれたものであったとしても、解放するのをためらうべきでしょうか。傷を隠すことなく、むしろ見せるようにするなら、その傷を通して神の光と愛を輝かすこともできます。それが他の人の人生に影響を与え、神の栄光をもたらすのです。「あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」[1]


1 マタイ5:16

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