ピーター・アムステルダム
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ヨハネ第6章には、イエスが5千人にパンと魚を食べさせられたことが書かれています。[22] その後、イエスはひとりで山へ退かれました。一方、弟子たちは舟に乗ってカペナウムへと向かい、暗い中を4~5キロほどこいだのですが、風が吹いて湖は荒れていたので、前へ進むのが困難でした。その時、弟子たちはイエスが水の上を歩いて舟に近づいてこられるのを見ました。イエスが乗り込まれてすぐに、舟は湖畔へと着きました。
パンと魚を食べた群衆は、その翌日になって、イエスがそこにおられないと知り、「それらの小舟に乗り、イエスをたずねてカペナウムに行った。そして、海の向こう岸でイエスに出会ったので言った、『先生、いつ、ここにおいでになったのですか。』 イエスは答えて言われた、『よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたがわたしを尋ねてきているのは、しるしを見たためではなく、パンを食べて満腹したからである。』」[1]
の群衆は、イエスから与えられたパンを食べた後に、イエスを王にしたがっていたほどなので、翌日イエスを探していたのは驚くにはあたりません。イエスは彼らの質問には答えず、むしろ彼らの動機を暴かれました。この人たちは、イエスが行われた奇跡の意味にも、イエスが何者であるのかにも興味はなく、ただパンをくれたということに気を取られていたということです。これは、イエスの時代にローマ皇帝がしていたことへの民衆の反応と似ています。「ローマ皇帝や他の政治家たちは、無料の食事によって民衆をなだめていました。ローマの隷属平民と同様、この群衆はただ食事の無料支給が欲しくて、イエスの『取り巻き』に加わりたかったのです。」[2]
イエスは続けてこう言われました。「朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。これは人の子があなたがたに与えるものである。父なる神は、人の子にそれをゆだねられたのである。」[3] 「ゆだねる」の原語は「印章を押す」という意味ですが、古代において印章は様々な使い方をされました。支配者は、自分に代わって事を行うよう委任した人に印章を与えることがありました。上記の箇所では、イエスの行われたしるしと奇跡によって、父なる神がイエスを認証されたと言っておられるようです。別の解釈として、幾つかの英訳本ではこの箇所を「父なる神は、人の子に承認の印章を押された」と訳しています。
「そこで、彼らはイエスに言った、『神のわざを行うために、わたしたちは何をしたらよいでしょうか。』 イエスは彼らに答えて言われた、『神がつかわされた者を信じることが、神のわざである。』」[4]イエスが彼らに、永遠の命に至る朽ちない食物のために働きなさいと言われたので、彼らはどんな働き、どんな業のことを言っているのか、知りたがりました。ユダヤ教の教えでは、業と信仰を切り離しませんでした。信仰はしばしば多くの業のうちの一つだったのです。しかしイエスはここで、信仰について異なる定義の仕方をされています。永遠の命を得るために必要な業とはイエスを信じることだと宣言されたのです。
「彼らはイエスに言った、『わたしたちが見てあなたを信じるために、どんなしるしを行って下さいますか。どんなことをして下さいますか。わたしたちの先祖は荒野でマナを食べました。それは『天よりのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。』」[5]
この前日に、イエスが5つのパンを増やして5千人に食べさせたというのに、神が砂漠でヘブル人たちに与えられたマナのしるしを彼らが持ち出してきたのは、やや奇妙に思えます。人々が信じるためにしるしを見せてくれと言ったのは、実際にはしるしを見て信じたいということではなく、無料の食事がもっと欲しかったからだということを示しています。
「そこでイエスは彼らに言われた、『よくよく言っておく。天からのパンをあなたがたに与えたのは、モーセではない。天からのまことのパンをあなたがたに与えるのは、わたしの父なのである。神のパンは、天から下ってきて、この世に命を与えるものである。』」[6] イエスは彼らに、荒野で食べたマナはモーセからではなく神から与えられたものであることを思い起こさせました。マナは天からの「まことのパン」ではなく、地上の物質的なパンです。それは40年の間、神の民に命を保たせたのであり、「この世に命を与える神のパン」の予表ともなりました。
「彼らはイエスに言った、『主よ、そのパンをいつもわたしたちに下さい。』 イエスは彼らに言われた、『わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。』」[7]
それを聞いていた人たちは、パンが神の贈り物を指すメタファーであることを理解しました。イエスが何らかの方法で彼らに「命」を与えようとしておられる、しかも、少し前に「朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい」という言葉があったように、永遠の命を与えようとしておられることを認め始めたのです。イエスは、「永遠の命に至る朽ちない食物」のために働きなさいと言い、今やイエスご自身がその命への道だとおっしゃっています。ご自身がそのパンであり、命を与える方であると言われました。ある意味で、これはイエスのされたことから、イエスが何者であられるのかに、焦点を変えるものです。
しかし、ご自身がそのパンであると言われた時、信じない者たちがいたのは明らかです。[8] 人々がしるしを求めたのに対して、イエスはご自分がそのしるしだと答えられたわけです。イエスは、天から下ってきたこと、そしてその目的は父の御心を行うためであることを、明言されました。
「ユダヤ人らは、イエスが『わたしは天から下ってきたパンである』と言われたので、イエスについてつぶやき始めた。そして言った、『これはヨセフの子イエスではないか。わたしたちはその父母を知っているではないか。わたしは天から下ってきたと、どうして今いうのか。』」[9]
彼らの間につぶやく人たちが出てきました。おそらくは、困惑したか、あるいはイエスがどういう意味で言われたのかについて意見が合わなかったからでしょう。両親が誰であるかを知っていたのも、イエスが天から下ってこられたという概念を受け入れるのを難しくしていました。
「イエスは彼らに答えて言われた、『互につぶやいてはいけない。わたしをつかわされた父が引きよせて下さらなければ、だれもわたしに来ることはできない。わたしは、その人々を終りの日によみがえらせるであろう。』」[10]
先にイエスは、「父がわたしに与えて下さる者は皆、わたしに来る」[11]と言い、ここではそれと同じことをもっと強い表現で、「父が引きよせて下さらなければ、だれもわたしに来ることはできない」 と言っておられます。人は神に教えられ、神の呼びかけを聞いてそれに反応することによって、イエスに引き寄せられます。
「よくよくあなたがたに言っておく。信じる者には永遠の命がある。わたしは命のパンである。」[12] 「よくよく言っておく」という表現をされたのは、この章で3回目です。イエスは命のパンなので、誰でも信じる者には永遠の命があるという重大な約束をしておられます。
「あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。しかし、天から下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことはない。わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である。」[13]
前の方で、群衆はマナについて言及し、同様の奇跡を望んでいることを示しました。それが理由で、イエスは「わたしは命のパンである」とおっしゃったのです。そう言った上で、マナの限界について語られました。それは神からの食物ではあったけれど、集めたその日のうちに食べなければならず、残ったものは全て翌日には腐っていました。彼らはそれで生き延びましたが、皆いずれ死にました。しかし、イエスが話しておられるパンを食べる人は死ぬことがありません。「それを食べる者は、いつまでも生きるであろう」という箇所に出てくる「食べる」というギリシャ語の動詞の時制は、それが一度限りの行動であることを示しています。つまり、誰でもこのパンを一度食べたなら、決して死ぬことがないということです。
これは普通の食べ物ではないので、どう食べればいいのでしょうか。その答えは言うまでもなく、信じることです。イエスが先ほど、こうおっしゃったように。「よくよくあなたがたに言っておく。信じる者には永遠の命がある。」 信じることや信仰を、食べることとして捉えると、信じるとはどういうことなのかがよく分かります。私たちは、食べ物を食べる時と同じようにして、信じているものを食べて吸収し、それが私たちの一部となるのです。イエスを「食べる」者は、決して死ぬことがありません。
イエスがこのパンはご自身の肉である、体であると述べられたのは衝撃的なことでしたが、それよりさらに衝撃的だったのは、ご自身を、その体を、その肉を「世の命のために与える」と言われたことです。イエスの話を聞いていた人たちは、イエスが話しておられたのは世の救いのために死なれることだとは、知りませんでした。
「天から下ってきたパンは、先祖たちが食べたが死んでしまったようなものではない。このパンを食べる者は、いつまでも生きるであろう。」[14]
「天から下ってきた命のパン」は、地上のどんなパンとも異なります。このパンを食べる者、つまりイエスを自分の人生に受け入れる者は、肉体的には死ぬとしても、霊的に死を味わうことがありません。イエスがこの章の先の方でこう言われたとおりです。
<「わたしをつかわされたかたのみこころは、わたしに与えて下さった者を、わたしがひとりも失わずに、終りの日によみがえらせることである。わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう。」[15]
この永遠の命のパンを食べた私たちが皆、それを他の人とも分かち合うことに忠実であれますように。
初版は2018年1月 2020年12月に一部を抜粋/再版
朗読:ガブリエル・ガルシア・ヴァルディヴィエソ
1 ヨハネ 6:24–26.
2 Craig Keener, The Gospel of John, A Commentary, Volume 1 (Grand Rapids: Baker Academic, 2003), 676.
3 ヨハネn 6:27.
4 ヨハネ 6:28–29 NIV.
5 ヨハネ 6:30–31.
6 ヨハネ 6:32–33.
7 ヨハネ 6:34–35.
8 ヨハネ 6:36–40.
9 ヨハネ 6:41–42.
10 ヨハネ 6:43–44.
11 ヨハネ 6:37.
12 ヨハネ 6:47–48.
13 ヨハネ 6:49–51.
14 ヨハネ 6:58.
15 ヨハネ 6:39–40.