今日誰かにとってのイエスになりなさい

1月 28, 2020

Be Jesus for Someone Today
January 28, 2020

引用文集

オーディオ所要時間: 11:10
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オズワルド・ゴルターは、1940年代の中国北部で宣教師をしていました。10年間の奉仕を終えて、彼が母国に帰る途中のことです。乗っていた船がインドに停泊し、帰途に就くためのボートを待っていると、桟橋の倉庫に住んでいる難民たちの一団が目に留まりました。彼らは他の誰からも望まれず、そこに立ち往生していたのです。ゴルターは彼らのところに訪ねて行きました。クリスマスの時期だったので、楽しいクリスマスを、と挨拶し、クリスマスに何が欲しいかと尋ねました。

「私たちはキリスト教徒ではありません」と、彼らは言いました。「クリスマスを信じていません。」

「知っていますよ」と宣教師は言いました。「しかし、クリスマスに何が欲しいですか?」 彼らはあるドイツのお菓子がとりわけ好きで、それが欲しいと言ったので、オズワルド・ゴルターは自分の切符を現金化して、そのお金でそのお菓子を何かごも買って難民のところに持って行き、楽しいクリスマスを、と言いました。

後で自分の教えていたクラスで、彼がその出来事について話すと、ある生徒は言いました。「しかし、なぜ彼らのためにそんなことを? 彼らはクリスチャンではなかったのに。彼らはイエスを信じてすらいません。」

「わかっているよ」と彼は答えました。「でも、私は信じているんだ!」 —storiesforpreaching.comより

小さな愛はどれほど大きな影響を与えるか?

2003年の11月、フィンランドで資金調達をしていた時に、私は古く薄汚いクラブでティノに出会いました。結論から言うと、その時店内には客が一人もいませんでした。ちょうど良かった、と私は思い、自分のボランティア活動を紹介し始めました。けれどもティノは、何かを売ろうとしているなら、自分は経済的にとても厳しいし、興味もないから、と丁寧に断ってきました。

「重い鬱病にかかっているんだ。友達の何人かが最近、皆アルコールのせいで亡くなってね。彼らが死んでも、誰も気にも留めていないようだった。今、次は自分かもしれないという気がして、自分も死んでしまいそうで怖いんだ。そうなったとしても、心から気にかけてくれる人なんているだろうか?」

彼は自分の問題について、延々と私に話し続けました 。過度の飲酒や多額の借金、とりわけ鬱病は最悪であると。イエスを信じているかと尋ねると、「よくわからない」と答えました。

「イエスよ、私をこの弱り果てたさまよう魂に、あなたの愛と答を伝える経路として下さい。」 私は心の中でそう祈りました。そしてティノに、イエスには彼の人生を明るく照らすことがおできになると話しました。「イエスはあなたのすべての問題の答なのよ」と。「聖書には、主が悩みの時のいと近き助けであると書いてあるわ。その悩みがどんなものであっても。」

私たちは1時間以上話していました。この貧しく絶望的な男性の立場に自分を置いて、イエスの無条件の愛や彼がもたらす平和を知らなければ、どんな風に感じるだろうと考えると、私の心は痛み、目に涙があふれました。

「会う人全員にこんなことを言うのかい?」 ふとした折に、彼はそう尋ねました。

「いいえ、でも誰かと深い話をするたびに祈るのよ。自分の言葉がイエスの言葉になって、イエスが相手に言われたいことを伝えられますようにって。」

今ではティノの目にも涙が浮かんでおり、私はイエスが彼の心に語りかけて、その暗く陰鬱な世界に一筋の光をもたらしておられるのだと確信しました。

私は彼の手を取り、彼のために祈りました。そして彼がイエスを心に受け入れますようにと。

2年後、私は再びフィンランドに行き、必ずそうしようと思っていた通りに、ティノのもとを訪れました。主は彼の状況が素晴らしく順調に運ぶよう配慮して下さいましたが、それは私たち二人が予想していたような形でではありませんでした。彼は自分のクラブを失い、別の人の店でバーテンダーとして働いていたのです。

「これが一番良かったんだよ」と彼は言い、心からそう思っているのがわかりました。まるで別人のようだったのです。「今じゃあ心配事もずっと減ったし、人生を楽しんで妻や子どもたちと過ごす時間が、ずっと増えたからね。」 そう言って彼は微笑みました。確かに、2年前に出会った憂鬱で不機嫌な男性とは、全然違っていました。小さな愛、神の愛が、彼の人生を変えたのです。—アンジェリーナ・レイ

説教ではなく、見本を

アメリカの著名な福音伝道師ドワイト・L・ムーディー(1837–1899)はかつて、「この世が最も必要としている説教は、イエス・キリストと共に歩む、靴を履いた説教である」と言いました。中にはこれを、「ほとんどの人が福音を聞く唯一の方法は、誰かがそれを彼らのもとに携えていくことである」と解釈する人もいれば、「ほとんどの人がキリスト教についての自らの見解を形成する方法は、説教の内容によってではなく、キリスト教徒がどのように生きているかという、目に見える例を通してである」と解釈する人もいます。おそらくムーディーは、両方の意味でそう言ったのでしょう。どちらも真実だからです。

人々は福音を聞き、それを解説してもらう必要があるものの、その通りに生きている誰かの模範を見る必要もあります。人々の心に働きかけて、イエスを受け入れて救われようと決める手助けができるのは聖霊だけですが、神が彼らに与えようと言われているものを理解し、同じことが自分にも起こり得ると信じるために、人は大抵、神がすでに他の誰かの人生でどのように働いておられるかを、見る必要があるのです。

「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、 柔和、自制である。」[1] 人々は、あなたが愛情深く、理解や思いやりがあり、優しく親切で忍耐強く、相手を気遣っている様子を目にする時、神の御霊に引き寄せられます。—シャノン・シェイラ―

違いは確かにある

一緒に通りを歩きながら、神について話し合っていたクリスチャンと無神論者についての実話があります。無神論者は神をあざ笑い、「もし神がいたら、何らかの証拠があるだろう。君と私の間には、人に見えるような違いがあるはずだ。君が本当に神を持っていて、私が持っていないなら、例えば、そこにいる乞食は、私たちを見るだけでわかるはずだろう。彼がどちらに施しを尋ねるか見てみようじゃないか。」

そこで彼らがそこを通りかかると、乞食は自分の一番近くを歩いていた無神論者を遮るように身を乗り出し、もう一人の男性に手を伸ばして言いました。「ああ、神が顔に表れているお方よ、お恵みを!」

人々は私たちの中にイエスを見る必要があります。私たちは、御霊の光と愛を輝かせなければなりません。その方法とは、神の近くに留まり、神を愛し、神が与えられるあらゆる恵みに感謝することです。—デービッド・ブラント・バーグ

偶然の出会い

あるところに、神に会いたいと願う男の子がいました。神が住んでおられる場所までは長いこと旅しなければならないと知っていたので、彼はトゥインキー(クリーム入りのスポンジケーキ)とルートビアの6本入りパックをスーツケースに詰めると、旅に出発しました。

3ブロックほど行ったところで、一人のおばあさんに出会いました。彼女は公園に座り、ただ鳩をじっと眺めていました。少年はその隣に座り、スーツケースを開けました。すると…その老婦人がおなかが減っているようであると気づいたので、彼女にトゥインキーを差し出しました。彼女は感謝してそれを受け取り、彼に微笑みました。彼女の笑顔がとてもかわいらしかったので、少年はもう一度それを見たいと思い、今度は彼女にルートビアを差し出しました。おばあさんはまた微笑んでくれました。少年は大喜びです! 彼らは午後ずっとそこに座って食事をし、微笑んでいましたが、言葉は一言も交わしませんでした。

暗くなってきたので、少年は…帰ろうとしてして立ち上がりましたが、数歩も進まない内に振り返ると、おばあさんのところに駆け戻って彼女を抱きしめました。おばあさんは彼に、最高に大きな微笑みを見せてくれました。

その後まもなく、少年が自宅のドアを開けた時、母親は彼の嬉しそうな顔を見て驚き、こう尋ねました。「そんなに嬉しそうな顔をして、今日は何をしていたの?」 少年は答えました、「神様とお昼ご飯を食べたんだ。知ってる? 神様の笑顔は、僕が今まで見た中で一番綺麗なんだよ!」

ちょうどその頃、やはり喜びに顔を輝かせて、おばあさんも家に戻りました。彼女の息子は、安らぎに満ちた母親の顔を見てあ然とし、「母さん、嬉しそうだね。今日は何をしたの?」と尋ねました。彼女は「神様と公園でトゥインキーを食べたのよ」と答えましたが、息子が何か言う前に、こう付け加えました。「あのね、神様って、私が思っていたよりずっと若いのよ。」

私たちはあまりにもしばしば、触れることや笑顔や優しい言葉や、耳を傾けることや、ほんのちょっとした思いやり深い行為といったものの力を、過小評価してしまいがちです!—キャシー・ピント [2]

2020年1月アンカーに掲載 
朗読:ガブリエル・ガルシア・バルディビエソ
音楽:ジョン・リッスン


1 ガラテヤ 5:22–23.

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