3月 19, 2020
旧約時代においては、神の臨在が火の柱や雲の柱、シナイ山での雷と稲妻、また燃える柴などに現れました。イエスは生涯、地上における神の臨在となられました。そして、ペンテコステの日以来、聖霊は御霊によって生まれた者、つまりイエスを救い主として受け入れることによって神の御国へ入ることとなった人々のうちに宿って来られました。イエスが天に昇られて以降は、神の御霊が信者のうちに宿っておられることが、地上における神の臨在の主要な現れとなってきたのです。[1]
聖霊は信者のうちにおり、多くの面で影響を与えておられます。私たちがほかの人にイエスについて、また救いという神の賜物について話すとき、御霊によって力を与えられています。交わりや礼拝、共に行う奉仕・教会・宣教活動という形で、他のクリスチャンと触れ合うとき、それは聖霊の賜物によってより素晴らしいものとされます。
主との個人的な歩みや霊的成長において、また、神の御心ややり方に沿って人生を生きる上で、御霊は重要な役割を担っておられます。神の御霊は、私たち一人ひとりを導き、指導してくださいます。私たちを教え、悟りを与えてくださいます。御霊によって、私たちが神の子どもであることや、神のうちにとどまり、また神も私たちのうちにとどまっておられるということが、保証されているのです。
昇天の直前、イエスは弟子たちに対して、エルサレムに戻って「父の約束を待つ」ようにとの指示を与えておられます。彼らが聖霊によってバプテスマを授けられることをお告げになったのです。[2] そして、聖霊がくだるときには、証しをする力を受けるようになると説明されました。[3]
ペンテコステの日に御霊が弟子たちにくだられ、それから次第に弟子たちはエルサレム、ユダヤ、サマリヤ、そして当時知られていた世界の隅々まで証人となっていきました。使徒や弟子たちが聖霊の力によって証しをしたことについて、多数の記述が残されています。
神の御霊は、初代教会を通して他の人々に手を伸べることに取り組み、彼らを通して奇跡を行い、反対と殉教に会っても勇敢にメッセージを伝えさせてこられました。その御霊が、今日でもクリスチャンのうちに宿っておられます。最初の弟子たちに委任されたこと、そしてそれ以降のすべての弟子たちに委任されたこととは、福音を他の人と分かち合うことです。そのための力と塗油をくださるのが聖霊なのです。
ある人は、聖霊は「宣教の霊」であると書いています。クリスチャンが喜んで福音を分け合おうとするとき、神の御霊はその人を変え、自分の限界を乗り越えて証人となるための力を与えることができるし、実際にそうしてくださいます。[4]
証しの委任は明確です。証しのための力は聖霊のうちにあります。私たちが自分のすべきことを果たすとき、他の人に福音を分け合うことにしたとき、私たちは失われた人や飢えた人にメッセージを伝えるための力と塗油を御霊によって与えられます。あなたの証しを通して、相手の人は、救いを受けなさい、神の子となりなさい、永遠に神と共に生きなさいという、神の御霊が呼びかける声を聞きます。
聖霊は賜物を与えて、他の人への奉仕ができるように備えてくださいます。それは私たちの証しの相手に対するものと、共に仕え交わりを持つ他のクリスチャンに対するものとの両方です。御霊の賜物は、書簡の6つの異なる箇所で述べられ、リストアップされています。[5] これらのリストには様々な賜物、また使徒や伝道者といったいくつかの務め・召しがあげられています。そして、それらの賜物は全体の益になるために聖霊によって与えられたものである、と告げているのです。[6]
リストアップされている賜物は、使徒や預言者・教師といった召し、力あるわざ(奇跡)、いやし、補助、管理、異言、知恵の言葉、知識の言葉、信仰、霊を見分ける力、異言の解釈、伝道者、牧師・牧者、勧め、寄付・施し、指導、慈善、結婚、独身生活、語り、奉仕です。最後の2つは第1ペテロにあるもので、賜物全般を含んでいると言えます。
「あなたがたは、それぞれ賜物をいただいているのだから、神のさまざまな恵みの良き管理人として、それをお互のために役立てるべきである。語る者は、神の御言を語る者にふさわしく語り、奉仕する者は、神から賜わる力による者にふさわしく奉仕すべきである。それは、すべてのことにおいてイエス・キリストによって、神があがめられるためである。」[7]
これらの賜物はすべて、福音をもって他の人たちに手を差し伸べるという務めにおいて、また、主やお互いへの奉仕において、使うことができます。いずれも聖霊が各自に与えられる賜物です。どの賜物もすべて神の御手から来ているのであり、私たちの人生や他の人への奉仕において大いに価値のあるものです。
私たちの人生における聖霊の臨在は、より神の性質を身につけた者となって行く成長をもたらします。神は聖であり、神の御霊は私たちが神の性質と性格に見習うような生き方をするよう促します。私たちは信仰において成長し、また、日々の生活に神の御言葉を適用することや、神の御心・御言葉・性格に沿った選択と決断をすることにおいて、成長します。それにつれて私たちは聖さにおいても成長し、「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」[8]
聖霊が私たちのうちに住まわれることの実、つまり影響とは、私たちがより愛と喜びと平安に満ち、寛容で、慈愛と善意の心を持ち、忠実で、柔和で、自制心のあるものとなっていくことです。要するに、より神の性質を身につけ、聖くなっていくということです。自制心が増すと、他の人に腹を立てたり、忍耐をなくしたり、思いやりや愛がなく憎しみに満ちた人となったりしないよう頑張れるようになります。ネガティブで神の教えに反するような行動や態度によって他の人や自分自身を傷つけるといったことも少なくなります。生まれつき人間が持つ罪深い性質を乗り越えやすくなるのです。
日々の生活における御霊の導きに身を任せ、神の御言葉にある原則を適用することで正しい道徳的選択をして行くことにより、主との歩みにおいて次第に成長して行きます。聖霊は私たちのうちに働き、罪に抵抗する力を授けることによって私たちが正しい選択をするのを助け、より神の性質に沿った行動をする選択を助けてくださいます。罪も罪の誘惑も、決して私たちの人生から根絶されることはありません。しかし、聖霊の助けによって霊的に成長するにつれ、もっと罪に対して断固とした態度を取り、それに屈しないようになれます。
使徒行伝の随所で聖霊は信者たちに下っておられ、彼らが御霊に満たされたことは明らかです。「さらに神も、しるしと不思議とさまざまな力あるわざとにより、また、御旨に従い聖霊を各自に賜うことによって、あかしをされたのである。」[9] 今この時代においても、御霊の臨在は信者の人生において様々な現れ方をしています。それは聖霊による霊の賜物や、奇跡(力あるわざ)としるしと不思議とに現れているのです。
内的な現れとしては、御霊の臨在が私たちの人生に次のような形で現れているのを見ることができます。私たちが神の子であり、神が私たちの父であるのだと、私たちの霊に証ししてくださること。[10] 私たちが神のうちにおり、神が私たちのうちにいますこと。[11] そして、父と共に永遠を過ごすという約束の保証、「手付金」を与えてくださったことです。「神はまた、わたしたちに証印をおし、その保証として、わたしたちの心に御霊を賜わったのである。」[12]
ウェイン・グルーデムは次のような素晴らしい言葉を語っています。
聖霊に満たされることは、神ご自身の臨在に即時に満たされることです。それによって、神が感じられることを感じ、神が願われることを願い、神が望まれることを行い、神の権威によって語り、神の力をもって祈りと務めを行い、神ご自身がお与えになる知識によって理解するようになります。[13]
クリスチャンは、自分のうちに神の聖霊に宿っていただくという恩恵にあずかっています。自分の体を聖霊の宮とし、人生において神に臨在していただくという光栄にあずかっているのです。
神の御霊は私たちの人生に臨在しておられますが、御霊の臨在がどの程度現れるかは、私たち一人ひとりにかかっており、御霊の影響にどれだけ自分の心を開いているかによります。旧約聖書には、自分の人生に聖霊の臨在と影響があったものの、罪を犯したことで御霊に離れられた人の例があります。たとえば、サムソンやサウルです。
新約聖書には、聖霊を悲しませるな、御霊を消すな、と書かれています。テサロニケ人への第1の手紙でパウロが使っている、この「消す」と訳されているギリシャ語の言葉は「スベンヌーミ」と言います。それは消す、抑える、抑え込むという意味であり、彼らのうちに、また彼らを通して現れる聖霊の働きに関してそのようなことをしないようにとパウロは戒めているのです。「神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、あがないの日のために、聖霊の証印を受けたのである。」[14] 神の聖霊が私たちに押し付けられることはありません。一方、故意の罪や無関心、不従順、不信仰によって、御霊の影響力が弱まることがあります。
聖霊が私たちの人生に積極的に関わってくださることから来る益は多くあります。聖霊は私たちの人生に良い影響を与えてくださいます。より有能な証人となり、他の人へのより良い奉仕ができるように助けてくださいます。より信心深くなって、悪や罪に抵抗できるようにしてくださいます。また、私たちを神の幕屋・住まいとし、他の人が私たちのうちに神を見て、神に引き寄せられるようにしてくださいます。私たちに授けられた、この「父からの贈り物」は、私たちの人生における神の臨在というきわめて貴重な贈り物なのです。[15] なんと光栄なことでしょうか。[16]
初版は2013年7月 2020年3月に改訂・再版
朗読:ガブリエル・ガルシア・バルディビエソ
1 Wayne Grudem, Systematic Theology (Grand Rapids: InterVarsity Press, 2000), 636.
2 使徒 1:4–5.
3 使徒 1:8.
4 J. Rodman Williams, Renewal Theology: Systematic Theology from a Charismatic Perspective, Vol. 2 (Grand Rapids: Zondervan, 1996), 249.
5 参照:1コリント 12:8–10, 28; エペソ 4:11; ローマ 12:6–8; 1コリント 7:7; 1ペテロ 4:11.
6 1コリント 12:4, 7, 11.
7 1ペテロ 4:10–11.
8 2コリント 3:18.〈新改訳〉
9 ヘブル 2:4.
10 ローマ 8:16.
11 1ヨハネ 3:24.
12 2コリント 1:21–22.
13 Grudem, Systematic Theology, 649.
14 エペソ 4:30.
15 参照:ヤコブ 1:17.
16 本記事の全体的な概念は、次の箇所に基づいています:“The Work of the Holy Spirit,” from Wayne Grudem’s Systematic Theology: An Introduction to Biblical Doctrine (Grand Rapids: InterVarsity Press, 2000).
Copyright © 2024 The Family International