ピーター・アムステルダム
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神は無限で至上の存在であるため、その知識は限りありません。完全にすべてをご存知です。それを表すために一般に使用される神学用語は、英語で「omniscience」(日本語では「全知」)です。それは、ラテン語ですべてを意味する「omni」と知識を意味する「sciens」から来ています。聖句には、神は知識の全き方、[1]すべてをご存知の方であると書かれています。[2]
神は、その存在において私たちと異なっており、神の知識の特質も、私たちのとは異なっています。神は本来的にすべてをご存知です。神の知識は、学んで身についたものではありません。外部から来たものではなく、観察や経験から来たものでもありません。論理的に考えた上で得られたものでもありません。神は学ぶということがありません。すでにすべてをご存知だからです。聖書は、誰が神に教えることができるだろうか、[3]また、神には相談相手が必要だろうか、と問いかけています。[4] それは修辞的な質問(相手が答えを知っていることを確認するための問いかけ)であって、そこで暗示された答えとは、神には相談者も教師も必要ないというものです。神の知識は無限なのです。[5]
神とは違い、私たちは学ぶことによって知識を身につけます。自分の外部から情報を次々と取り入れて、その情報が知識ベースに追加されていきます。私たちは、自分が意識しているよりもはるかに多くを知っています。私たちが知っていることのほとんどは潜在意識の中にあるからです。必要な時に意識的にその知識にアクセスし、それを思い出すのです。
神の知識はそれとは違って、常にすぐそこにあります。思い出そうとしなくてもいいのです。神はすべてをご存知であり、また、知っておられることすべてについての意識が常にあります。だから、潜在意識から情報を呼び出す必要がないのです。神は知識の全き方、すべてをご存知の方です。神の知識や思考様式は、私たちのものを完全に超越しています。[6]
神学者であるケネス・キースリーは、こう説明しています。
神は全知であるため、本来的にすべてをご存知です。どういうことかといえば、有限の存在である私たちとは違い、何かを「見出す」という精神的プロセスを踏むことがないのです。神には、何かを「学ぶ」ことも「思いつく」こともありません。すでにすべての真実をご存知です。神が全能であるということは、単に神は私たちよりも限りなく多い知識を有しておられるということではなく、神の知識は、タイプも質も異なったものであるということなのです[7]
ご自身や被造物についての神の知識
神は、宇宙の全情報を蓄えた巨大なコンピューターのように、単に知識を蓄えた存在ではなく、ご自身のことはよくわからず、蓄えられた情報について見識を持った行動ができないような方ではありません。それよりはるかに優れた方です。
パウロがほのめかしたように、神はご自身のことをすべてご存知です。「御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。」[8]
神は、ご自身以外のこともすべてご存知です。宇宙について、ご自身の被造物についてのすべてです。それは、すべてのすずめの死についてや、全員の頭の毛の数までご存知であることに表されています。[9] いかなる被造物も、神から見えないものはありません。[10]すべて存在するものも、すべての出来事も、神はご存知なのです。[11]
神は、すべての人について、すべてのことをご存知です。過去も、現在も、未来も。私たちが言わんとしていることを、それを言う前に、神はすでにご存知なのです。[12] 人が生まれる前にでさえ、神はその人の人生のすべてを、寿命も含めて、ご存知です。[13]
神は、私たちの振る舞いも行いも、すべてご存知です。聖書は、主が天から見おろされ、すべての人の子らを見、そのすべてのわざに心をとめられるると告げています。[14] 私たちの行いとともに、動機についてもご存知です。私たちについて神が知っておられることは、外に現れる行いだけに限られません。何かをするときの理由もご存知です。心の深くにある思いをご存知なのです。「わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る。」[15]
神の無限の知識には、心にあることであれ行動であれ、すべての人についての知識も含まれます。この知識により、神が人をさばかれる時、それは正確かつ的確なのです。神から隠されているものは、ひとつもありません。人は、その行いや動機について、他の人を(時には自分自身でさえも)欺くことができるかもしれません。しかし、神の御前では、すべてがあらわにされています。神は人の行いも動機も、良いものも悪いものも、完全に知っておられるので、正しく裁くことがおできになるのです。
ルイスとデマレストは、神の無限の知恵を次のように説明しています。
神は、自然界のエネルギーを、物質や法則、動物や有限の霊を、すべてご存知です。生きた人間についてもご存知です。身体的特徴だけではなく、心の思い、葛藤、動機、意思決定についても、また、言葉や行い、事象、出来事にあらわれる決意についても、ご存知なのです。神は、すべてのことを知っておられます。[16]
神は過去や現在だけではなく、未来についてもご存知です。イザヤ書は、真の神の特質のひとつは未来を完全に知っていることであり、未来の出来事を知らせる能力であると告げています。わたしは神である、わたしのほかに神はない。わたしは神である、わたしと等しい者はない。わたしは終りの事を初めから告げ、まだなされない事を昔から告げて言う、「わたしの計りごとは必ず成り、わが目的をことごとくなし遂げる」と。[17]
イエスも、ご自分を殺す者たちの手に渡され、それからよみがえることを話されたり[18]、税金を払うためにペテロに海に行って魚を釣るようにと言われたり[19]、ご自身はユダによって裏切られ[20]、また弟子たちは会堂から追い出されて迫害され、殺されるということをお告げになったりして[21]、未来の出来事を予告されました。
仮説的知識
過去、現在、未来の出来事すべてを、また、人の心の思いや動機を、神が知っておられるということは、神学的には「あらゆる現実的なもの」を知っている、と言います。神は、現実的なものをすべてご存知です。神はまた、「あらゆる可能的なもの」も知っておられます。つまり、特定の状況下では起こりうるけれども実際には起こらないこと、条件次第で可能なことについてもご存知だということです。ある人はこれを、仮説的知識と呼びます。
一例をあげると、ダビデがサウルから逃げていた時のことです。ダビデはある時、ペリシテ人がケイラと戦っているということを聞きました。そこで主にたずねてみると、主はダビデに、ペリシテ人と戦ってケイラを救うようにと言われました。ダビデと従者たちはそれに従い、ケイラの住民を救いました。
しばらくして、ダビデがケイラにいることをサウルは耳にし、こう言いました。「神はわたしの手に彼をわたされた。彼は門と貫の木のある町にはいって、自分で身を閉じこめたからである」。[22] そしてサウルは、ダビデと従者たちを攻め囲もうとして、民を戦いに呼び集めました。もしダビデと従者たちがケイラにとどまったならば、どんなことが起こり得たかを神はご存知であり、それをダビデに啓示されました。そのような状況にあっては、ケイラの人々がダビデをサウルに渡すであろうことを、神は知っておられました。それは現実にはなりませんでした。ダビデがケイラを立ち去ったからです。しかし、もしダビデがとどまっていたならば、サウルに渡されていたであろうということです。
神が「あらゆる可能的なもの」を知っておられることの別の例は、イエスがコラジン、ベツサイダ、カペナウムで多くの力あるわざをなされても彼らが悔い改めなかったので、それらの町々を非難された時のことです。イエスは、もしご自身によってなされた奇跡がツロ、シドン、ソドムでなされたならば、そこの人たちは悔い改め、ソドムは今でも残っていただろう、ということです。[23]
これらの例が示しているのは、神は現在起こっていることやこれから起こることだけではなく、もし他の要素が関わってくるならば何が「起こり得た」かということもご存知だということです。神はあらゆる「実際的」なものと、あらゆる「可能的」なものを知っておられます。
ウィリアム・レーン・クレイグは、仮説的知識について、理解の助けとなる説明をしています。
かなり良い例解として、チャールズ・ディケンズの小説『クリスマス・キャロル』が挙げられるでしょう。スクルージが未来のクリスマスの霊と遭遇するところです。精霊はスクルージに、ティム少年の死や自分自身の墓といった恐ろしい場面を、次々に見せます。スクルージは見せられた場面、影に動揺し、精霊の足元にひれ伏してこう言います。「精霊よ、教えてください。これらは、『そうなる』ことの影なのですか。それとも、単に『そうなるかもしれない』ことの影なのでしょうか。」
精霊がスクルージに見せていたのは、「そうなる」ことの影なのではありません。この小説の結末によれば、ティム少年は死んでいないし、スクルージは悔い改めることになります。…精霊が見せていたのは、もしスクルージが悔い改めなければ何が起こるかという仮説的知識でした。そういうことだったのです。精霊は未来についての知識を前もって与えようとしていたのではありません。むしろ、スクルージが悔い改めなければどういうことになるのかという仮説的知識を授けようとしていたのです。[24]
神の全知性は、他の属性と同様に、人間の理解力で完全に理解することはできません。神の思いは私たちの思いよりも高いということは、神が無限の存在であり、世界とその中のすべてのものを創造し、永遠のうちに存在し、過去も現在も未来も知っている方だということを考えれば、当然のことです。
初版は2012年5月 2019年11月に改訂・再版
朗読:ジョン・ローレンス
1 ヨブ 37:16. 聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。
2 1 ヨハネ 3:20.
3 ヨブ 21:22.
4 ローマ 11:34.[新共同訳]
5 詩篇 147:5.
6 イザヤ 55:8–9; ローマ 11:33.
7 Kenneth Keathley, Salvation and Sovereignty (Nashville: B&H Academic, 2010), 16.
8 1 コリント 2:10–11.
9 マタイ 10:29–30.
10 ヘブル 4:13 NAU.
11 ヨブ 28:24.[新共同訳]
12 詩篇 139:1–6.
13 詩篇 139:13–16.[新共同訳、詩編]
14 詩篇 33:13–15.
15 サムエル上 16:7.
16 Gordon R. Lewis and Bruce Demarest, Integrative Theology (Grand Rapids: Zondervan, 1996), 231.
17 イザヤ 46:9–10.
18 マルコ 9:31.
19 マタイ 17:27.
20 マルコ 14:18–20.
21 ヨハネ 16:2.
22 サムエル上 23:7.
23 マタイ 11:21–23.
24 William Lane Craig, “The Doctrine of God, Lecture 7,” June 24, 2007.