神に近づく

10月 8, 2019

Drawing Near to God
October 8, 2019

引用文集

オーディオ所要時間: 11:18
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神の御国が私たちの只中にあることのあらわれの一つは、神が私たちの只中で歩み、語られることです。[1] 私たちの神との関係は、消費主義的な関係ではないし、クリスチャンは自分たちの信仰を、消費者的宗教であると考えているわけでもありません。私たちはキリストの恩恵や教会の礼拝を、消費しているのではありません。観客ではなく、むしろ参加者なのです。ですから、私たちは耳を傾け語るという関係の内に、神と対話します。…そのような対話は、私たちと神との友情関係の一部なのです。

最新の分析によると、クリスチャンの実生活において、神が一人一人を扱われる方法に信頼すること以上に大切なことは、何もないということです。…聖書の記述において、神と信者の関係は常に、一方が他方の必要を満たすために配慮するといったものではなく、どちらかというと友人関係や家族の絆のようなものとして描かれています。…

神は、ご自分を愛し、ご自分が天の御国や彼らの仕事に、共に携わっておられることを理解している、自由な人々ではなく、むしろロボットのような人々からなる世界を、創造することもおできになったことでしょう。しかし、そんな世界では、会話などありません。あるのは指示と服従だけです。そのような状況にいると、人々は神との真の友情を深め、共に何かを成し遂げるための、率先性や自由を失ってしまいます。そのような真の友人関係に、神への服従は伴うでしょうか? ええ、しかしその人が率先性を発揮する余地をまるで残さないほど、強引に指図されることはありません。…

その会話を、ただ神が、すべきことを自分に告げられるだけのものと解釈するなら、あなたは神と語り合い、神に耳を傾けることの大切さがわかっていません。しかし祈りは、共に働く者たちの間で交わされる、誠実な会話です。神と私が協力し合って働いており、私は神の御力をその活動に用いなければなりません。協同活動は、会話がどのように流れるかを理解するための、重要な鍵です。私たちは、そのような会話において、神が今日してほしいと望まれること以外の、他のことについても話します。近況や、興味がある事柄や、悲しく感じていることなどを。神と人との間で交わされる会話の大半は、私たちが様々な物事を理解できるよう、助けることを目的としています。神は、ご自分の人々が成長し、進歩を遂げるのを助けられるように、人々と関わられるのです。

具体的に言うと、神がどのように語りかけ、導かれるかを理解しようと努める際には、何よりもまず、神から聞く方法を学ぶことは、ある人生、つまり、天の御国における、王と他の臣下たちとの愛情深い交わりの人生の一環として追求されるべきであるという事実にしがみつかなければなりません。神が私たちに語りかけられるのは、それが純粋で豊かなアガペーの愛で互いに愛し合う、成熟した人々による、互いとの知的で自由な協力関係へと発展してゆくためであることを、決して忘れてはならないのです。ですから、単に神から聞くだけではなく、神と愛情深い関係にある成熟した人間になることを、私たちの第1の目標としましょう。神から正しく聞くためには、それしか方法がありません。—ダラス・ウィラード

私たちの闇から神の光へ

私たちへの神の召しは、暗闇にいる人々にとっての光となることですが、時として神は、私たち自身にも暗闇を通らせなければなりません。私たちが完全に神の光だけに頼ることを学ぶように。

オズワルド・チェンバーズは言いました。「聖なる地に近づいているなら、心の状態を正さなければなりません。砕けた心という最善の状態にするのです。」 私たちの心は、宿命を逃してしまったと考える時に砕かれます。私たちは果たせなかった目的ゆえに苦しみます。しかし、神は私たちが苦しむ時にこそ、その心をまったきものとして下さるのです。私たちを謙虚に、そして憐れみ深くされるのであり、神が私たちのために用意しておられる召しにおいて成功するために、私たちはこれら二つの性質を宿していなければなりません。

人生における神の召しへと移行するようあなたを備えてくれる、そのまったきものとする工程を恐れてはいけません。それはあなたを不動のものとし、強め、安定させてくれるでしょう。[2] ただ、火をくぐり抜けている時もしっかりとしていなさい。そうすれば清められ、形成され、謙虚になり、神があなたのために用意しておられる責務を全うする準備が整うでしょう。一歩一歩神と共に歩むなら、それらすべてを価値あるものとしてくれる、神の臨在と御力を感じつつ、そのような時期を切り抜けることでしょう。そうすればあなたは、偉業へと通じる道を歩むようになります。…偉大な人とは、仕える人のことです。「あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人とならねばならない。」[3]

神への礼拝によって神の偉大さを認める時、私たちはその偉大さを、自分自身の中に招き入れることになります。神に従い仕える時、神は私たちを通して、偉業を成し遂げて下さいます。人生において成し遂げるよう、神が私たちに求められているのは、このような偉業なのです。何年も前に、偉業を成し遂げるようにとの神の召しを聞き、それに忠実に従っているからといって、今新鮮で新しい召しを、聞くことがないとは限りません。あるいは、おそらく神は古い召しに、真新しい定義を与えられるかもしれません。いずれにせよ、あなたはしっかりと耳を傾けるべきです。神が自分を通してどんなことをして下さるのだろうという期待で、心が生き生きとしていないなら、ひょっとするとあなたの耳を傾ける姿勢は、人生を送る過程において鈍化してしまっているのかもしれません。時間を見つけて、主と共にしばしその場を離れ、再び主に語りかけて頂きましょう。—ストーミー・オマーティアン

霧に包まれていますか?

何らかの選択や決断をしなくてはならないものの、どちらに進めばいいか皆目見当がつかないのですか? 自分が何を望んでいるのかさえ、わからないのかもしれません。主の導きに従いたいのですが、その導きが何なのか、正確にはわからないのです。どこに行くべきか、何をすべきか、どうすべきかわからず、もがいています。それぞれの選択がどのような:結果を生み出すのかや、どのような方向に導いていくのかがわかるほど十分に先を見ることができないのです。まだ決断を下せるほど十分な情報がないと感じています。すぐに決めなくてはというプレッシャーを感じ、それぞれの選択の利点と不利な点はわかるのですが、どの選択肢が良いかはっきりとわかりません。そして、主もまだそれをはっきり示されていないのです。

ある時、主に導きを求めていると、主は次のように言われました。「運転中に霧が出てきて、先が見えなくなってしまったなら、最善の策は車を停めて、霧が晴れるまでしばらく待つことだ。無理に先に進もうとすれば、危険を冒すことになる。今の時期も少しそれに似ている。霧が晴れるまで、前方に何があるのか、正確にはわからない。これはただ単に、今は霧が立ちこめている時期だというだけで、霧はいつか晴れる。今はわたしにしがみついて、信頼すべき時だ。ただ信頼し続け、信仰を持ち、わたしに頼り、じっと待ちなさい。」

すべてをご存じで、すべてを見ておられる方からのこのような助言を聞き、私たちはほっと安心しました。そこでこの節を思い出しました。「主を待ち望め。勇ましくあれば、主があなたの心を強められる。」[4] 前方がはっきりと見えない時に決断を下したりせずに、むしろ主が霧を晴らして下さるのを待つことで、自分たちが正しいことをしているという確信がありました。そしてイエスは約束された通りに、私たちの心を強め、平安を与えて下さったのです。

きっと皆さんも、人生において何らかの決断を下さなければならなかったけれど、何一つ答えが与えられないように思われた時期のことを、思い出すことができるのではないでしょうか。けれども、祈り、信仰を持ち、主が乗り越えさせて下さると信頼して待っていると、神は最終的に、道がはっきりと見えるようにして下さいました。そしてあなたは待ち、信頼してよかったと思ったのです。待つことは、信仰生活の大切な部分です。それは容易なことではありませんが、私たちを導き、忍耐を教え、人格を形成し、ご自分に近づけるために、神が用いられる工程の一つなのです。

次に保留状態か待機状態になったら、以上の聖句の幾つかを思い出し、それらを励みとして下さい。霧は晴れます。常に必ず!—マリア・フォンテーン

2019年10月にアンカーに掲載 朗読:デブラ・リー
音楽:ジョン・リッスン


1 ルカ 17:21.

2 1 ペテロ 5:10.

3 マタイ 20:26.

4 詩篇 27:14.〈英語NKJV訳より〉

5 新共同訳

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