イエスはありのままのあなたを受け入れて下さる

9月 10, 2019

Jesus Takes You as You Are
September 10, 2019

引用文集

オーディオ所要時間: 10:28
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私たちは虚偽に満ちた世界に生きています。フィルターがかかった世界に。自分がソーシャルメディアで人の目にどう映るかを操作できる世界に。人々がありとあらゆる戯言を吐く世界、他の人たちが申し分のない生活を送っているように見える世界に。

そこで質問です。「イエスは何を愛されるのでしょう?」

私は他の皆と同じような一日を送り、他の皆と同じように何らかの過去を持っています。神は私を愛しておられるけれど、たった今は私をお好きではないだろうと感じる日もたまにあり、そこで隠れようとするのです。そして時々、「フロンティン(うわべを取り繕う)」という形でそうすることがあります。この「フロンティン」とは、かつて「ギャングぶった」ジェイソンが格好をつけて用いていた言葉です。私が言いたいのは、ただうわべを取り繕っているなら、それは本当のあなたではないということです。神にまた好きになってもらえるよう、完璧になろうと努めるのですが、もし神の愛を全部持っているのなら、神からそれ以上好かれることなど、どうしてできるでしょうか?…

父なる神にあなたの生き方を喜んでもらうためには、ビリー・グラハムになる必要がある、などとは思いません。あなたは地上ではまったく無名のまま死んでしまうかもしれませんが、死ぬ時に宇宙の神であられる方に「よくやった」と言ってもらうことができます。ですから、自分を偽ったりうわべを取り繕うのはやめ、ありのままの自分でいて、ただ従順の内を歩みましょう。…

ローマ 5:8にはこうあります。「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」

愛は人が最悪の状態である時にも愛し、最善の状態へと導いてくれます。神は私たちが最悪の時にも愛して下さいました。宇宙の神がイエスを送って死なせられた時、私たちは罪の内にいました。イエスはあなたがこれまでしてきたことや、将来するであろうことをすべてご存じの上で、私たちの罪の代価を支払われたのです。…

神はあなたが最悪の時期にも愛して下さり、今もご自分のもとへと、あなたを導いておられます。イエスに近づく時、あなたは最高の自分を見いだします。

受け入れてもらおうとうわべを取り繕い、自分を偽るのはやめましょう。神はあなたが最悪の時にも愛して下さるし、たった今も同じように愛しておられます。神はあなたの人生にあるがらくたを、気にされないでしょうか? もちろん気にされますが、それでもあなたを愛しておられるのです。そのようなキリストの愛を励みとして、より良い自分になろうと努めましょう。

最悪の時にも愛してもらえるなら、ありのままの自分でいることができます。神はあなたのすべてをご存じなのですから、うわべを取り繕い、隠れ、自分を偽るのはやめましょう。神はあなたを愛しておられます。本当のあなたを、あなたのすべてを。—ジェイソン・コーチ [1]

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「ありのままの自分で」という概念は、正しく解釈するなら、聖書に沿っています。聖書には、「ありのままの自分で」という言葉自体は見られませんが、そこには確かに、神の驚くべき恵みに基づいた同じようなメッセージを暗に伝えている、様々な節があるのです。

ヨエル2:32では、預言者が主の日に訪れる恐ろしい裁きを告げ知らせており、そこから救い出そうという神からの申し出は、「誰でも主の名を呼び求める人々」に向けられています。イザヤ1:18では、神はあなたに来るよう招いておられます。たとえあなたの罪は緋のようであっても、それを雪のように白くしてあげようと。そして黙示録22:17では、すべての人を招いておられます。「かわいている者はここに来るがよい。いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい」と。これらやその他の節ではっきりと示されているのは、私たちは罪人ではあるものの、ありのままの姿でみもとに近づくなら、神は私たちを清めることがおできになるということです。

「ありのままの自分で」という言葉の意味や、その適用方法としては、イエスがどのように出会った罪人と向き合われたかという例を参考にするといいでしょう。善良なクリスチャンの中には、神に受け入れてもらうためには「人生を清め」なければならないと言う人々がいますが、そんなことが書かれている聖句はありません。結婚していない男と暮らしている女性に、井戸のそばで話しかけておられた時、[2] イエスは彼女の罪に触れられましたが、その後必要な救いを与えようと言われました。また、姦淫の場で捕まった女性[3] が御前に連れてこられた時、イエスは彼女にこう言われました。「行きなさい。もう罪を犯さないように。」 罪は言い逃れることも無視することもできませんが、誰でも自分の罪を認識し、それを告白して捨てることを厭わないなら、ゆるしが与えられるのです。確かに神は、私たちが罪を捨てることを求められますが、それは救いに自ずと伴うものであって、救われるための前提条件ではありません。私たちは神の助けなしに、自らを清めることなどできないのです。…

神は驚くほど恵みと愛とゆるしに満ちた方なので、救われるに値しない私たちに、救われるよう呼びかけられます。まだ罪人であった時に、キリストは私たちのために死んで下さいました。[4] 私たちがゆるしを受けることができるように、そうして下さったのです。主は私たちがみもとに行く時、罪を告白し、それを捨てることを求められますが、それでもありのままの私たちを受け入れて下さり、それから私たちが従順の内に主に自分を明け渡す時に、私たちを変え始められるのです。—gotquestions.org より [5]

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私たちは自分がふさわしいから神に近づけるのではありません。ああ、そのことを本当に理解してもらえるといいのですが。それはただ、主イエス・キリストのふさわしさのみによるのであると。あなたが大胆に御前に近づく権利を与えてくれるのは、ゴルゴタの十字架なのだと。あなたが神に近づくことができるのは、あなた自身のふさわしさによるものではありません!

私たちの罪はゆるされています。神の御子イエス・キリストが、十字架にかかって、私たちの罪をご自分の身に負って下さったからです。[6] 血まみれの十字架は、この大胆に御前に近づくという私たちの権利の倫理的根拠であり、また私たちの罪がゆるされたことを保証するものなのです。

「さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。」[7]

十字架が既に完了された取引であることを思い出すなら、素晴らしく元気づけられます。その約束は、私たちのどんな言動や、私たち自身のふさわしさでもなく、既に流された血と、既に完了された取引を基盤としています。私たちはそれを受けるにふさわしくありませんが、ゴルゴタの十字架の下にひれ伏し、その血の力を要求するなら、最も劣悪な罪人も、あらゆる罪がゆるされたことによる平安を知り、キリストの血によって、主イエス・キリストのふさわしさによって、天の父なる神に大胆に近づくことができるのです。愛する皆さん、天の父なる神に近づくためには、主のふさわしさを通してそうする以外に、方法はありません。—バージニア・ブラント・バーグ

2019年9月アンカーに掲載 朗読:ルーベン・ルチェフスキー
音楽:マイケル・ドーリー


2 ヨハネ 4:1–26.

3 ヨハネ 8:1–11.

4 ローマ 5:8.

6 1 ペテロ 2:24.

7 ヘブル 4:14–16.

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