イレーナ・ザビッコワ
他の人に愛を示す方法の一つである「もてなし」について、書いてみたいと思いました。行動に表された真のもてなしの心を目にすることで、そのテーマについて学ぶ素晴らしい機会があったからです。
旅人をもてなすことを忘れてはならない。このようにして、ある人々は、気づかないで御使たちをもてなした。—ヘブル 13:2
貧しい聖徒を助け、努めて旅人をもてなしなさい。—ローマ 12:13
6か月ほど前、私たちは新しい区域に引っ越しました。そしてそこに着いてからずっと、近所の人たちに心を開いて、愛や思いやりを示そうと努めてきました。いつも微笑んで挨拶をし、調子はどうかと尋ねたりしたのですが、これは彼らの大勢にとって普通のことではありませんでした。新しく越してきた見知らぬ人たちが、そんなにも親しげに接してくることが。私たちは何度か手作りのピザを準備し、オーブンから取り出したばかりの焼きたてを、友情のしるしとして配りました。彼らにとって、そんなことをする人がいること自体、信じがたいことでした。私たちは、近所の人たちに気遣いを示すことにおいて、自分たちが良くやっていると考えていましたが、その後ニルダに出会ったおかげで、思いやり深い行いで他の人々に手を差し伸べることについて、まったく新しい物の見方をするようになりました。
ニルダと知り合ったのは、彼女の二人の成人した孫たちを通してでした。二人とも遺伝性の退行性疾患により、全身に障害を負っています。ニルダは彼らの世話を手伝うために、娘とその家族と同じ家に住もうと決心しました。身体障害者の世話には、多くの労力やストレスが伴います。この家族が自分たち自身の問題や難局のことにかかりっきりだったとしても、誰も文句を言わなかったことでしょう。しかし、ニルダはそうしませんでした。今まで知り合った人の中で、彼女ほど手厚く人をもてなす人を、私は知りません。通りかかったどんな人でも必ず家に招き入れて、飲み物や食べ物を出してあげるのです。
彼女の障害を持つお孫さんたちを助けるために、あるプロジェクトをしていた私たちは、彼女の家に通い始めた時、彼女がそんなにも手厚くもてなしてくれるのは、自分たちが彼女の家族を助けているからだと思っていました。けれども、彼女の家の前を通りかかるか、訪ねて行くと、毎回少なくとも1~2組の訪問者がそこにいたのです。よく子どもたちが笑って、彼らの家を電車の駅のようだと言っていました。前に来ていた訪問者が立ち上がって帰り始めると、新しい訪問者が家に入って来るからです。そこには常に人の出入りがありました。
飲み物やケーキがいつも置いてあり、お茶菓子や簡単な料理も数分で出せるようになっているのです。当の家族が面している問題や困難にもかかわらず、この家からは、喜びに満ちた楽観的な雰囲気が輝き出ていました。訪問者は常に歓迎されるのです。
家に入ると、ニルダはすぐに座るよう勧め、頼んでもいないのに、皿やフォークやケーキやお茶菓子を食卓一杯に並べて、コーヒーや紅茶はいかが、と尋ねてくれます。彼女が疲れていようと、気分が悪かろうと関係ありません。あなたのことを心から考え、ありったけの体力を振り絞ってあなたをもてなし、何としてもあなたを助けようとするのです。
彼女を訪問する際に私たちが連れてくる犬でさえも、そこにいる間、かならず水が入ったボウルと、特別な犬用の御馳走を一つか二つもらえます。実のところ、私たちの犬はニルダの姿を遠くから認めて、今回はどんな美味しいおやつをもらえるのだろうと、待ちきれない様子なのです。ニルダは訪問者の最もささいなことに至るまで、気を配ってくれます。
誰かが亡くなると、彼女は少量の食べ物と飲み物をかき集めて、贈り物用の袋に入れ、遺族に届けて、彼らとしばらく時間を過ごします。私たちの祖母が亡くなった時も、そうしてくれました。どうやら、そうすることはそこの地方の風習のようなのですが、彼女は純粋に相手の気持を考え、思いやりながら、真心を込めてそれを実践しているのです。
数人の親せきを亡くした後で、自分の母親がかなり突然に世を去った時、ニルダはすっかり打ちのめされてしまいました。私たちは、彼女を励まそうとできる限りのことをしましたが、彼女の繊細な心は、深く傷ついていました。そして、集会や歌の会にも顔を出さなくなったのです。しかし、そのような辛い時期にあっても、彼女の手厚いもてなしは少しも変わりませんでした。その家は引き続き訪問者であふれかえり、彼らが食べ物も飲み物も出されずにそこを立ち去ることは、決してなかったのです。そして、彼女は自分の悲しみを隠すことはしなかったものの、いかにも辛そうな振る舞いをすることはありませんでした。そしてほんの数か月後には、もう「復活」していたのです。
どうしてそんなにも早く悲しみを克服できたのか尋ねると、彼女は言いました。「私が悲しんでいるのを見たら、母がとても悲しむと思ったの。母は私に幸せでいてほしいと思っているでしょう。だからまた歌って、楽しいことをし始めたの。」 とてもシンプルですね。ニルダと同じように、シンプルで優しい理由です。
彼女が人々に与えている喜びや優しさや愛情深い気遣いや助けやもてなしの心を、このような数文で正確に表現できるかわかりません。以下は彼女のことを考える時に思い浮かぶ聖書の節です。
そこで、あなたがたのうちでいちばん偉い者は、仕える人でなければならない。—マタイ 23:11
わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない。—マタイ 10:42
それから、以前読んだ次のような引用句も思い出しました。
イエスが頻繁に信者たちと食事を共にすることを選ばれたのは、理由あってのことです。もてなしは見知らぬ者同士の間に信頼を築き、人生の険しい状況を乗り越えられるよう、そこに橋を架けてくれます。クリスチャンが神の愛を近所の人々に分かち合いたいと思うなら、ただ彼らを家に招き入れればよいのです。—Crosswalk Editorial より
私たちは、自分たちもそんなふうにして、もてなしの心を実践し、神の愛と気遣いを他の人たちに示したいと決心しました。しばしば外に出かけて、様々な宣教活動に携わっているので、常に家に居て訪問者の相手ができるわけではありませんが、それでも突然の訪問者に出すことができるよう、お茶菓子や飲み物を手近に置いておき、できる時にはいつでも、彼らを家に招くことができるよう備えています。ニルダのものほど豪華なお茶菓子はありませんが、それでもできる限りのことをしているのです。
その結果、人々にどれほど大きな変化が見られ、主がどんなに数多くの祝福をもたらされているかは、本当に驚くほどです。たとえば、修理工が私たちの車を修理して工場から持ってきてくれたので、私たちは彼を中に招き入れて、飲み物やお茶菓子を出し、おしゃべりをして時間を過ごしました。彼のことを深く知ることができたのは、それが初めてのことでした。しかも、修理代が格段に安くなっていました。値引きしてほしいなどとは、一度も頼まなかったというのに。
台所のガステーブルの修理で来てくれた男性は、何か飲んで行きませんかという誘いに応じてくれ、お互いに色々なことを話した後で、活動への寄付として、私たちのガステーブルを無料で修理しようと申し出てくれました。
ごみ収集車がごみを回収するために通りかかった時、私たちは作業員の男性たちを、コーヒーとクッキーでもどうぞと招き、しばらく話して一緒に時間を過ごしました。彼らを家に招いたのはそれが初めてでしたが、その中で一番若い男性が言いました。「以前もここに来たことがありますよ。」 そして、私たちが数年前、裏庭でピザパーティーとピエロショーをした時に招いた孤児院で育ったのだと話してくれました。招かれた子どもたちの中に、彼もいたのだそうです。帰る間際に彼らは、もし余分のごみが出たら、喜んで収集すると言ってくれました。私たちがその時、まさにその問題に頭を悩ませていたことなど、知る由もなかったというのに。そう、余分のごみです!
別にこれらの「好意」を求めたわけでもなく、そんなつもりで彼らを招いたわけでもありませんが、ただ純粋な気遣いを示し、ニルダ式の「もてなしの心を実践する」ことによって、主が彼らの心に触れて下さり、彼らは何かを与えたいという気持ちになったのです。
私たちはニルダを、そして彼女がその見本を通して、行動に移されたもてなしの力と効果について教えてくれたことを、心から感謝しています。訪問者の視点で直接それを経験したからこそ、それを自分たちに適用して、自宅でもてなしの心を実践し始めることができたのです。そして言うまでもなく、それが他の人々に即座の成果や前向きな影響をもたらしたことをとても嬉しく思っており、このような方法で証しができることを喜んでいます。
最後に、とても要を得ていて、励ましであると感じた、このテーマについての以下のような引用句を分け合いたいと思います。
審判の日について主が語られた素晴らしい言葉は、思いやりという輝かしい行為の別の面を物語っています。主は、空腹な人に食べさせ、喉の渇いた人に飲み物を与え、旅人をもてなし、病人を見舞うといったささいな行為や、私たちがさして気にも留めないような、愛によるその他の名もない奉仕も、もし正しい霊の内になされるなら、それらは実際、キリストご自身になされたものとして受け止められると言われています! …私たちが愛によってできる最善のこととは、世の人の目に輝かしく映るような善い行いをする機会をうかがうのではなく、むしろちょっとした親切な行為で、日々を満たすことです。そうすれば数え切れないほど多くの心が、より高潔で、強く、幸せなものになるでしょう。—J・R・ミラー