永遠の腕

5月 14, 2019

The Everlasting Arms
May 14, 2019

引用文集

オーディオ所要時間: 11:42
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とこしえにいます神はあなたのすみかであり、下には永遠の腕がある。—申命記 33:27

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子供の頃、私たちは体を板のようにピンと伸ばして後ろ向きに倒れ、そこで待ち構えている大人の頼もしい腕に受け止められるというゲームをしていました。おかしなものですが、何度他の人がしているのを目にし、また自分でやろうとしても、最後の瞬間になると、どうしても転ばないように膝を曲げるか何かしてしまうのです。臆病風に吹かれてやめてしまわないためには、ある種の「委ねる」姿勢を要し、それは私の生まれつきの思考回路や反射反応とは正反対でした。それをするには、受け止める人を完全に信頼していなければならなかったのです。

私たちクリスチャンは人生の中で、「イエスに寄りかかる」という表現や、古い賛美歌にあるように「永遠の腕に寄りかかる」という表現を頻繁に用います。それは人生で困難な経験を通っている時に、助けを求めてイエスに寄りかかっている人の姿です。私も人生で幾度にもわたって、この「寄りかかる」ことをしてきました。イエスが強く揺るぎないお方で、力と慰めに満ちておられることに気づいたのです。夫が生命を脅かす病気と闘っていた、長く辛い数年間に、私は主に全身で寄りかかりました。そして、自分自身が癌にかかるという困難な道を歩んでいた時には、それ以上に全身で寄りかかったものですが、主がそこにいて受け止めて下さらなかったことは、一度もありませんでした。その道が進めないほど困難を極めた時でさえ、私を抱き上げて運んで下さったのです。

最近私の人生に、再びとても辛い時期が訪れ、私は絶望の淵に沈みました。真っ暗な夜に呑み込まれて、イエスが見えなくなり、その存在を感じることも出来ませんでした。どこかその辺におられることはわかっているのに、なぜこんなに距離を感じるのでしょう? 私は主の愛や御力を求めて手を伸ばし、空(くう)を掴んでいる自分の姿を思い浮かべました。すると、心からの祈りが答えられ、主が優しい御声で、こう語られるのを聞きました。「わたしの姿が見えず、手を伸ばしても触れられないのは、あなたの前にいないからだ。わたしはあなたの真後ろにいる。この強い腕をあなたに回して、後ろから抱きしめているのだ。あなたはただ、わたしの肩に背中を預けて、休んでいればいい。触れようと手を伸ばし、もがいてはいけない。そんなにも懸命になって、わたしを見つけようとするのはやめなさい。ただ後ろにもたれかかって、わたしの永遠の腕の中で休みなさい。」

体の隅々にまで染み渡るほどのまったき平安が、心に満ちあふれました。その後の困難だった数ヶ月間に、私はかつてないほどイエスに寄りかかりました。説明しにくいのですが、それまでとは違って、もっと全身全霊で寄りかかるようになったのです。

その後私の状況は、さらに困難を極めました。体は慢性的に衰弱しており、時折痛みに襲われました。イエスの優しい御声が再び聞こえたのは、自分の力をすっかり失った、そのような大変な時期でした。主はこう言われました。「後ろにもたれなさい。ただわたしを完全に信頼し、わたしの腕の中に倒れかかるのだ。子どもの頃に遊んだあのゲームのように。」

それから起こったことはとても現実的で、私の心の中でスローモーションのように進んでいきました。まず、自分が災いという山の頂で、激しく吹き荒れる嵐のただ中に立っているかのように感じました。私は両腕を大きく広げ、体を後ろに傾けて、倒れました。完全に委ね、服従し、信頼しながら。すると、私は問題や嵐の世界から抜け出て、イエスの御腕の中へとゆっくり倒れて行くのを感じたのです。優しく受け止められた時、自分が愛で包まれるのを感じました。そしてふと気づくと、私は星がちりばめられた、美しく暗い静寂の中に浮かんでいました。空間と呼びたいところですが、空っぽではありません。そこは生命にあふれており、その存在の性質そのものによって、私を勇気と信仰で満たしてくれました。

私は体が持ち上げられるのを感じました。どんどん高く、山々のはるか上の方にまで。そして、爽やかで涼しい風が、顔に吹き付けているのを感じました。風の翼に乗って飛んでいたのです! 私は次のような節を思い出しました。「主を待ち望む者は新たな力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。」[1] 自分が喜びを取り戻し、霊が新たに強められたのを感じました。とても元気づけられ、爽快な気分でした!

それから主の声が、こう語るのを聞きました。「ここはあなたが自由になれる場所だ。体が苦しみの床に囚われている時には、あなたの霊を飛び立たせなさい。ただ倒れるのだ。わたしに倒れかかりなさい。すべてを委ねて、倒れるといい。」

突然に、「寄りかかる」という言葉がまったく新しい意味を帯びるようになりました。倒れる時に、完全に自分を委ねて倒れることを学んだのです。永遠の御腕の上に乗るのではなく、その中に包まれることを。何という素晴らしい経験だったことでしょう!

これらが病身の女性の単なる馬鹿げた白昼夢であると考えそうになったら、もう一度よく考えて下さい。これまで科学は、そのあらゆる知識や経験をもってしても、すべての状況を超越する、真の心の平安を与えてくれる薬を考案するに至っていません。希望もなく途方に暮れる魂に効く魔法の薬や、耐え難い重荷に押し潰されている霊に効く強壮剤など、一つもないのです。

私はそれを体験し、そのような平安を見いだしました。外から見た状態は変わっていませんが、内面がいやされたのです。体の痛みそのものよりも耐え難い心の痛みが。私は自由です!—ミスティ・ケイ

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イエスの御腕よ、私を抱き寄せて下さい
あなたの強く愛情深い御胸に
私の霊があなたの懐で
永遠の休息を見いだすまで。
そして時という砂時計の最後の砂が落ちる時
私の心をあらゆる不安から守って下さい
「あなたの下には永遠の腕がある」と
優しく囁きながら。
A・B・シンプソン

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主があなたの信頼する者であり、あなたの足を守って、わなに捕われさせられない。

まことに人の怒りはあなたをほめたたえます。怒りの余りをあなたは帯とされます。わたしは主を待ち望みます、わが魂は待ち望みます。そのみ言葉によって、わたしは望みをいだきます。わが魂は夜回りが暁を待つにまさり、夜回りが暁を待つにまさって主を待ち望みます。わたしが主に求めたとき、主はわたしに答え、すべての恐れからわたしを助け出された。

とこしえにいます神はあなたのすみかであり、下には永遠の腕がある。…おおよそ主にたより、主を頼みとする人はさいわいである。それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。—『日々の光』

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疲れた子供のように、私たちもまた、永遠の御腕の中に倒れ込んで休息することを学べないでしょうか。自分の知識の内にではなく、信頼を置いている方の御腕の中で。—C・H・スポルジョン

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(祈り:)あなたの青々と生い茂った枝の陰に、私は涼やかな保護と休息を見いだします。主よ、苦闘のさなかにあなたが与えて下さる休息を感謝します。騒がしく慌ただしい日々の中で、あなたが与えて下さる平安を感謝します。日差しが最も強烈で、すっかり疲れ切ってしまうような、日中の最も暑い時間に、あなたの葉陰で守って下さることを感謝します。

主よ、あなたにあって休息することで、再び強められることを感謝します。あなたはうみ疲れ、重荷を負っている時にはご自分のもとに来るようにと言われました。そうすれば休ませて下さると。進み続けることができない時、私はただ横たわってあなたの陰で昼寝をします。そうすれば目覚めた時には、生気と活力にあふれ、仕事に戻る備えができているのです。

主よ、あなたにあって休息することにまさるものなど、何一つありません。自分の仕事をあなたに委ねて、首尾よくそれを遂行できるよう助けて頂くこと以上に、素晴らしいことはありません。あなたがいて下さらなければ、私は重荷で押しつぶされてしまうことでしょう。人がそのような重荷を負うことは不可能ですが、私はあなたの永遠の御腕に助けられて、それを負うことができます。

あなたに荷を委ねる時、とても大きく強い神であるあなたは、それを運ぶことがおできになるし、その重さを感じることすらありません。そしてそればかりか、私をも運んで下さるのです。

2019年5月にアンカーに掲載 朗読:ジェイソン・ローレンス
音楽:ジョン・リッスン


1 イザヤ 40:31.

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