クリスマスの喜びを見つける

12月 10, 2019

Finding Christmas Joy
December 10, 2019

引用文集

オーディオ所要時間: 10:58
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贈り物をもらうと、ほとんど誰でもわくわくするものです。また、贈り物を与える事にも、特別な喜びが伴います。アメリカには、ことクリスマスに関しては、数多くの慣習があり、それは家族ごとに異なりますが、どうやらどの家族にも共通する一つの慣習が、贈り物交換のようです。商店はそれを知っており、クリスマスの何ヶ月も前から、贈り物向けの商品や、その店の商品を贈られた幸せそうな人々の写真でフロアをあふれさせて、準備を整えます。彼らは意欲的に特別価格やセールの日や、購買特典や報奨ポイントを提供して、あなたの休暇資金を使ってもらおうと、数々の企画を用意します。車のディーラーから安物雑貨店に至るまで、誰もがあなたに、クリスマスに愛する人のために買えるような品を、提案してくるのです。

私が育ったのは、アメリカやその他の、クリスマスが鳴り物入りの宣伝や贈り物であふれかえっている地域ではありませんでした。正直な話、「クリスマスに全力投球する」機会を得た初めてのクリスマスに、私はショッピングモールで何日も買い物をして過ごし、ネット上で何時間もかけて「最高」の商品をリサーチし、それらの贈り物を完璧に包装して、美しいリボンをかけるのに、さらに何時間も費やしました。

クリスマスが近づいてくると、私は何度か、自分が内心でこうつぶやいているのを聞きました。「早くこれが終わってくれればいいのに。」 クリスマスが終わってほしいと望んだことなど、それまで一度もありませんでした! それまではクリスマスのたびに、孤児院や病院や学校や刑務所で慰問ショーをして、それ以外にも、ショッピングモールやクリスマスパーティーで、パフォーマンスをしたものです。そのあらゆる瞬間を心から楽しんだのであり、クリスマスが来る頃までにはすっかり疲れていたものの、その季節がいやだと感じたことなど、一度もなかったのです。

ふと気がつくと、今や自分も「伝統的なクリスマス」の仲間入りをしており、それは喜びにあふれる時ではなく、負担に感じる時となりつつありました。クリスマスに取り囲まれ、それで頭が一杯であるにもかかわらず、クリスマスを丸ごと逃してしまっているような気持ちでした。けれども、それまで経験した中で最も慌ただしいクリスマスイブのお祝いまで、とにかく無理をして突き進んだのです。何百という贈り物が交換され、包装紙やパッケージが詰まったゴミ袋が、幾つも集められました。「クリスマス」が終わった後で、私はその場に座り、ひどく物足りない気持ちで一杯でした。素晴らしい映画の壮大なラストシーンを見逃して、気がつくとクレジットが流れていた様な気分でした。クリスマスはどこに行ってしまったのでしょう?

考え抜いて選んだ、あれらの贈り物は? 数週間が過ぎ、数ヶ月が過ぎるにつれ、私は自分が贈った様々な贈り物が、引き出しの奥に突っ込まれていたり、棚の上でほこりを被っているのを、偶然見かけました。また、自分が受け取った贈り物の中にも、役に立たない物があることに気づきました。皆で何千ドルも贈り物に費やしておきながら、数週間後には、それらによって人生がもっと豊かになった人は、誰一人いないようでした。

クリスマスを盗んだグリンチのようだと思われてしまう前に、はっきりさせておきたいと思います。別に、贈り物を贈ることに反対しているわけではありません。ただ、慌ただしい買い物やストレスによって、クリスマスの輝きが失われてしまうのを見るのが、嫌でたまらないのです。あのがっかりするようなクリスマスに、私は真のクリスマス精神とは、つまりクリスマスを特別なものにしている喜びとは、人が探し求め、見つけ出さなければならない何かであることを学びました。それは12月になってプレゼントを買い、ツリーを飾りつけ、クリスマスの音楽を聴いたからといって、得られるようなものではないのだと。

クリスマスの本当の意味を見つけたいなら、その良い手始めは、クリスマスと贈り物を贈ることとの間に、はっきりとした区別を設けることです。クリスマスはイエスがこの世に降誕されたことを祝う時です。今年、クリスマスの精神を広めるために私がやろうとしていることは、必要を抱えている子どもたちや家族のクリスマスを特別なものにする宣教プロジェクトに寄付を送る、自分の地域社会で、分け隔てなく人々に親切な行為をする、ショッピングモールに行かない、大騒ぎするのをやめて、もっと意味のある時期にすることでクリスマスをシンプルに保つ、家族や友人とできるだけ多くの時間を過ごす、といったことです。

そして私がイエスに捧げる贈り物とは? 感謝です!

もう12月です。クリスマスの騒乱に拍車がかかる前に、時間を割いて、この美しい時期をどのようにすれば意味あるものにできるかや、今年どのようにして「クリスマスを見つける」ことができるかを、考えてみてはいかがでしょうか。—マラ・ホドラー

喜びの時

惨めなクリスマスを送ることは、実際にあり得ると思います。贈り物を贈るという一大行事に没頭するあまり、特定の贈り物を見つけられないなら、良い夫や妻や父や母や友人や…その他諸々ではないと、自分に言い聞かせてしまうのです。とはいうものの、おそらくあなたはたった今苦労しており、クリスマスはあなたにとって、大変な時期なのでしょう。そして、その休暇が終わるのが待ち遠しくてたまらないのです。

私たちはクリスマスが何を意味するのかについての、本来の考えに立ち帰らなければなりません。それは喜びです。救い主がお生まれになったことへの喜びなのです。ガブリエルがマリヤに、彼女が救世主の母親となることを告げるために現れた際、まずこう言いました。「喜びなさい、恵まれた人よ、主があなたと共におられます。」[1]

そしてマリヤがしたことは、まさにそれ、すなわち喜ぶことでした。マニフィカトと呼ばれる賛歌の中で、マリヤは言いました。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」[2]

ルカ2章には、天使が羊飼いに次のように言ったとあります。「恐れるな。見よ、大きな喜びを、あなたがたに伝える。」 ただの喜びではなく、大いなる喜びです。…

イエスの時代には、恐れるべきものが沢山ありました。ユダヤ人たちは、暴君ヘロデの支配下で、ローマ人が占拠していた地に暮らしており、ヘロデは意のままに人々を処刑できたのです。彼らは自分たちの将来を恐れていました。もう一度自由になれるのだろうか、救世主は本当に来るのだろうか、と。…

天使が羊飼いたちに告げたメッセージとは、次のようなものです。「恐れるな。救い主が来られた。これはあなたがたが知り、大いに喜ぶべき良き知らせである。」 …

私たちには、ゆるしを与えて下さった救い主がおられます。約束を守って下さるメシア(キリスト)がおられます。そして最後に、私たちには単なる仲間や友人ではなく、主がおられます。主がおられるということは、人生で歩むべき道を示して下さる方がおられるということです。その道を歩む時に、守って下さる方であり、この人生が終わった時に、天国に迎え入れて下さる方がおられるのです。

私たちには、救い主がおられます。私たちにはキリストがおられます。私たちには主がおられます。そして、喜びに満ちたクリスマスを送るのに必要なのは、それだけなのです。—グレッグ・ローリー [3]

不完全さの中の完全さ

以前、クリスマスについての記事を書いていた時に、グーグルで「不完全なクリスマス」を検索してみると、あらゆる点において不完全なクリスマスを、慈しんで受け入れるという探求に携わっているのは、自分だけではないことに気づきました。年齢も背景も様々な、とても大勢の人々が、クリスマスが絵に描いたように完璧ではなくても、幸せに感じることを学べるという、同じ発見をしたのです。

以下は様々なブログで見つけた、私のお気に入りのコメントです。

ジョージという名の弁護士が言いました。「すべてのクリスマスが、非の打ち所のないものになる、などということは起こらないでしょう。毎年、そしておそらくは毎週のように、問題やがっかりするようなことが起こるものです。しかし、私たちは皆、厳しい時期を乗り越えられるよう、互いに助け合うためにここにいるのだということを、覚えておかなければなりません。良き友となるとは、そういうことです。人生もクリスマスも、完璧である必要はありません。ただ自分の苦労や喜びを、進んでお互いと分かち合う必要があるだけです。」

カナダのヨーク大学のゴードン・フレット教授は、ある興味深い所見を述べていました。「クリスマスは、現状が順調そうに見えなければ(そして実際に順調でなければ)ならないという、とてつもなく大きな文化的期待を反映しています。私たちの社会は、消費者を基盤とした社会であり、それはこのように告げます。申し分のない外見と申し分のない達成事項があれば、申し分のない人生が送れるはずであると。人々はこの理想を叶えようと、多大な努力を払うため、いざ休暇が来る頃には、疲れ切っているのです。」

メディアは、より良い人生を送るために必要であるとされる数々の物の画像・映像を、私たちに浴びせかけます。そのせいで人は、たとえば人生が、広告や映画の中のようにファッショナブルでも快適でもない時、自分に何かが欠けているように感じてしまうことがあるのです。

サラというブロガーが、次のように書いていました。「時々、完璧さという虚構や、デザイナーブランドやグルメや、おしゃれなクリスマスといった、ピンタレスト(ネット上の画像を自分の「ボード」に「ピン」して集めるツール)に載っているようなクリスマスの罠に、つい引っかかってしまいがちです。どうやらその背後には、次のような思想があるようです。美しく飾り付けるなら、それは美しいクリスマスとなり、どういうわけか私たちの周りの様相に、私たちの心の平安や喜びが最も如実に表れており、それらがクリスマスに、自分の不完全さという現実から私たちを守ってくれる、最強の防護であると。今年私は…自分の不完全なクリスマスを祝おうと思います。おそらくそれを「ピン」したり、支持したりしてくれる人は誰もいないでしょうが、私は数少ない誇り高き人々の一人となるのです。私は今、何千という色とりどりのミニライトが輝く中、ここに座っており、この不完全なクリスマスや、不完全な家族を、心から愛しています。不思議なことに、どういうわけか何もかもが、穏やかで明るいのです。」

最後に、もう一人のブロガーによる、次のような美しい見解について、じっくりと考えてみて下さい。「クリスマスの主旨とは、完璧に過ごすことではありません。それは完璧になるという、決して満たすことのできない要求事項から、私たちを救って下さった方を祝うことです。」—ティナ・カップ

2019年12月にアンカーに掲載 朗読:ジョン・マーク
音楽:『Rhythm of Christmas』アルバムより、許可を得て使用


1 ルカ 1:28.〈英語NKJV訳より。この節において、和訳聖書の多くで「おめでとう」と訳されているギリシャ語の言葉の本来の意味は、ここにあるように「喜びなさい」です。〉

2 ルカ 1:46–47.〈新共同訳〉

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