引用文集
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「たまたま」という言葉が新約聖書で使われるのは一度だけで、それは、イエスご自身が語られた良きサマリヤ人のたとえ話の中です。ルカ10:31でイエスは、「するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った」とおっしゃいました。この「たまたま」という言葉は、「スン」と「クリオス」という2つの単語が組み合わさってできたギリシャ語の言葉「スンクリアン」からの翻訳です。「スン」は「~と一緒に」を意味し、「クリオス」は「最高の権威」を意味します。つまり、聖書で使われる「たまたま」という言葉は、「神の摂理により状況が整えられたことに伴って起こること」という意味なのです。
私たちにとって偶然のように見えるものは、実際には、すべての人の髪の毛の数でさえご存知の主権者たる神によって支配されています。[1] イエスは、一羽のスズメでさえ、父の許しなしに地面に落ちることはないと言われました。[2] イザヤ46:9–11で、神は次のように、ご自分がすべてを支配していることを明確に述べておられます。「わたしは神である、わたしと等しい者はない。わたしは終りの事を初めから告げ、まだなされない事を昔から告げて言う、『わたしの計りごとは必ず成り、わが目的をことごとくなし遂げる』と。 わたしは東から猛禽を招き、遠い国からわが計りごとを行う人を招く。わたしはこの事を語ったゆえ、必ずこさせる。わたしはこの事をはかったゆえ、必ず行う。」
人生の出来事を考えるとき、私たちはそれらを「重要」か「重要ではない」かで分類しがちです。多くの人は、神は「大きなこと」を支配しておられると信じることには苦労しませんが、そのように大きな神は、わざわざ日常生活の一見些細な出来事のように思われる事柄など気にかけるはずがないと思い込むのです。けれども、その考え方は私たち人間の限界を反映するものであり、聖書によって支持されたものではありません。神にとって重要でない出来事などないのです。神の御力は無限なので、その強さを節約する必要はありません。神の注意力は決して分散されません。主なる神がすべてのスズメを見守られるとしたら、[3] 神の注意を引くのに小さすぎるものは何もありません。神はしばしば全能者と呼ばれており、[4] それは無限の力と絶対的な支配を意味する名です。
たまたまという言葉は、人間が予期しない出来事や意外な出会いを説明するときに使うものです。しかし、私たちにとって意外だったからといって、神にとってもそうだとは限りません。聖書は、罪深い人間が過ちを犯し、その過ちの結果を刈り取るのを神が許しておられることを明確に述べていますが、主権者たる神のみが、「神を愛する者たち、すなわち、計画に従って召した者たちと共に働いて、万事を益となるようにする」とも約束できたのです。[5] 神は、神のみがご存知の方法で、私たちの過ちや計画外の出来事さえも手に取り、それらを共に織り成して神の目的を達成なさいます。
旧約聖書の時代、神はしばしば大祭司のエポデに入れられたウリムとトンミムを用いて、指導と指示を与えられました。[6] 新約聖書では、使徒たちが神の主権を信じて、ユダに代わる新しい弟子を選ぶためにくじを引く場面があります。[7] これらのコミュニケーション手段はそれぞれ取るに足らないように見えますが、神は聖書の随所で、ご自分の目的のためには最も小さな物や小さな出来事を使うことがおできであることを示されたのです。神にとって、私たちの言う「たまたま」はないようです。宇宙の管理は偶然に基づいてはいません。聖書は、神の御旨だけが堅く立つのであり、最も偶発的に見える出来事でさえ、実際には神が支配しておられると述べています。[8] 箴言16:33にはこうあります。「人はくじをひく、しかし事を定めるのは全く主のことである。」 私たちから見れば取るに足らないと思えることが、実は、私たちの人生における神の御心を成し遂げるために、神の全知の力が私たちのために働いていることの結果なのかもしれません。—gotquestions.orgより [9]
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つい最近、私は祈りに対する素晴らしい答えを目の当たりにしました。その時、信仰が行使されたのです。小柄な女性が、何かを売りに私たちのコテージの戸口に来たのですが、ちょうどそのとき、ファースト・バプテスト教会のガードナー牧師が、私をふらっと訪ねて来たのです。さらに、牧師が玄関から入って来たまさにそのとき、角を曲がった小さな教会の、別の牧師が裏口のドアを叩きました。そうやって、私たち4人が出くわしたのです。私は玄関先に来た物売りの女性を知らなかったのですが、彼女は突然、ひどく具合が悪くなりました。
私は神に仕える牧師である二人の男性に、彼女のために一緒に祈ってほしいと頼み、そういうわけで私たちは真剣に祈りました。牧師の一人が彼女の頭に手を置き、私たちが祈り終えると、その後に彼女が突然、とても不可思議な表情で見上げて、こう言いました。「これは奇跡よ、今までで一番素晴らしい奇跡だわ! 急に具合が悪くなって、めまいがしたの。気を失うと思ったわ。頭痛も酷くて。前からずっとそういう病気があったのですが、今回は頭痛がとても酷くて、頭を右に動かせないぐらいでした。少し動かしただけで、それ以上は無理でした。見てください、頭が動かせるんです。頭痛もありません!」 それ以来、彼女の頭痛はぶり返すこともなく、首のこわばりもありませんでした。
さて、私が言いたいのは、その素晴らしい癒しや、神がいかにして即座にその問題を解決されたかということよりも、それ以上に、神がその憐れみのうちにこれらの人々を同じ場所に集めてくださったという事実なのです。これらの2人の聖職者が訪れたのは予想外でした。彼らはお互い知らないどうしでした。私はその女性を知りませんでしたが、神は私たちがあんなふうに鉢合わせになるよう計画しておられたのです。
ある日の午後、私がこの話を一同に向かって話していると、一人の科学者が少々うんざりした様子で言いました。「あなたは本当に、神がそのようにちっぽけな人たちのところまで身をかがめてくださると信じているというのですか? 神が一人の牧師を戸口まで連れてきて、もう一人をまた別の戸口に、それからこの女性をそこに、という具合に連れてくるほど、一人の人間に関心をよせておられると? その女性がそこまで神にとって重要だとは思いませんが。」
そこで、私は言いました。「ええ、私は信じます。そして、私は『あなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない』とイエスが語られた、小さなスズメと同様に重要です。あなたの頭の毛まで数えられていて、それが何本かを主がご存知だと知っていますか。[10] あなたは原子が宇宙における活発な創造的力であることについて話していますね。さて、それと同じように、霊の世界において信仰は活発な創造的力であって、効果を生み出し、強力な物事を実現させるのです。
「誠実な祈り、単純な信仰、神の力、その3つを混ぜ合わせなさい。そうすれば原子よりも強力な力が手に入ります。 信仰が自然の領域や感覚の領域にないからといって、宇宙における活発さが劣るわけではありません。」 彼がそれで納得し、確信するようになったとは全く思いませんが、愛する人たち、私が言いたいのは、私はそう確信しているということです。—バージニア・ブラント・バーグ
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あなたはわがすわるをも、立つをも知り、遠くからわが思いをわきまえられます。—詩篇 139:2
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医療の仕事をしていると、一日に何が起こるかは、決してわからないものです。
患者の看護をするとき、私は神が何かものすごいことを起こされるのをあまり期待していません。私は看護助手で、関節手術から回復中の患者をケアする看護師をサポートするのが仕事であり、結局のところ、それは医療作業です。
ある夜のこと、夜勤の仕事はいつも通りに進み、患者の状態もすべて順調でしたが、ホールの向かい側にある手術センターでは仕事が山積みになっていました。こんなに遅い時間に私が呼ばれるのは珍しいことなのですが、そこで私の夜が様変わりするのです。
私は自分の「快適ゾーン」を離れなければならないことについて少々緊張しながら、袖をまくり、深呼吸をして仕事に取り掛かりました。最初の仕事は、ある患者を車椅子に乗せて、建物の背後に停めてある患者搬送車まで連れて行くことです。
車のところに着き、私は彼らが無事に行き帰りできるようにと声をかけました。そして、車椅子を押してドアの方へ行こうと向きを変えた時のことです。リネンブランケットを積んだステーションワゴンを降りてこちらに向かって歩いてくる男性に気付きました。
「すみません、このブランケットはどこに運べばいいんでしょうか。」
荷物の届け先を説明しながら、これはなんて奇妙な状況かしらと思いました。たまたま、どのリネンを発注したのかと、それをどこに届けるのかを知っているのは、その建物で私だけだったのです。
彼は感謝の表情で、「どこに行けばいいのか分からなかったので、神が誰かを送ってくださるよう祈ったんです」と言いました。
なんと、神は彼が助けを必要としたまさにこの瞬間に、まさにこの場所に、私を遣わされたわけです。
友よ、神は私たちを見ておられ、私たちの状況をご存知です。ちょうど、リネンの配達員が直面した苦境をご存知だったように。神はそれを見ておられるばかりか、気にかけてくださるのです。詩篇139:2で、神がこう思い起こさせておられるように。「あなた[神]はわがすわるをも、立つをも知り、遠くからわが思いをわきまえられます。」
神は私を通常の仕事から引き離し、建物の背後にある患者搬送車まで連れて行かれたほどに、あの配達員の祈りを十分に気にかけておられたのです。ただ、私が彼に道案内できるようにするためだけに。神はそれと同じだけ、あなたと私を気にかけておられると思いますか?
神は遠くではなく、近くにおられます。私たちが神に向かって目を上げると、神は下に向かって手を伸ばされます。神は私たちの助け、救い主であり、私たちが祈りをささやく時に山(または人々)を動かしてくださいます。
神が動かれる方法は神秘的であり、私たちの言いなりにならないことは確かです。けれども、娘から愛情深い父親へのささやきのように、熱心な祈りは神の心に尊いのです。
その夜、私は、神が私たちの人生において最も予期しないときに動き、私たちを神のご計画の一部にしてくださるという事実に驚嘆しました。神は次に何をなさるのでしょうか。—メアリー・ピーターソン [11]
2019年5月アンカーに掲載 朗読:ジェリー・パラディーノ