人性と理性

4月 29, 2019

Personality and Rationality
April 29, 2019

ピーター・アムステルダム

オーディオ所要時間: 10:31
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クリスチャンとして、私たちは罪を「脱ぎ捨て」、キリストを「身にまとう」ことです。「闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着け」 、[1] 「主イエス・キリストを身にまとい」、[2] 「以前の生活に属する‥‥古き人を脱ぎ捨て」...「真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべき」[3]なのです。

罪について語るのは好きでありません。しかし罪はすべての人の人生の一部であり、キリストを身にまとう上で、罪と向き合ってそれを克服する努力をする必要があります。いうまでもなく、地上での人生から完全に罪を根絶することは、いつまでたってもできません。しかし、神の恵みと助けにより、ある程度の勝利を得ることはできます。救いによって、私たちの人生に対する罪の支配力から解放され、神の御霊によって変えられることができるようになります。

聖書には次のように書かれています。神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって [新共同訳では「似せて」]人を造り‥‥。」 神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。[4] これは、人類が神にならって造られたということを示しています。神は人格のある存在であり、私たちも神と同様、理性的で自己認識ができ、知性や意思、感情、知識を備えています。考えたり、論じたり、学んだりすることができます。

道徳的にも人は神に似せられています。聖書は、神の律法がすべての人の「心にしるされている」[5] と教えています。すべての人は善悪の違いを本質的に知っています。というのは、間違ったことをするときには良心がそれをとがめるからです。神の道徳基準に従って生きるべきかどうかは、私たちが決めることではありません。神は私たちを造られたとき、すでに制限範囲を定めておられるからです。神の基準に従って生きることを「したくない」と決めることはできますが、「する必要がある」という事実が変わるわけではないし、神の道徳律に反した振る舞いをするならそれには当然の結果が伴います。人生の終わりに神の御前で釈明の義務を負うとき、殺人や盗みをしたり嘘をついたりすることが間違ったことだとは知らなかったと言える人は一人もいません。なぜなら、神はすべての人の内に、基本的な道徳性を植え付けておられるからです。

聖書には、私たちの思いが信仰生活や道徳的決断において果たす役割が書かれています。[6]聖書には、「think」(考える)という言葉が54回、「reason」(推論する、論理的に考える)が50回、「understand」(理解する)や「understanding」(理解)が145回出てきます。私たちは「思い」(知性や理解力)によって考え、推論し、判断を下し、結論を導き出し、状況を評価したりします。聖書には他にも、私たちの選択する力や意思、また欲するままに行動できるということが書かれています。私たちは自由意志を持つ生き物であり、選択する力は、私たちの人間性に不可欠な要素です。

また、私たちには感情や気持ちがあるし、自己決定能力もあります。まとめて言えば、私たちは考え、感じ、行動する生き物だということです。私たちは知性(思い)で考え、心で感じ、意思によって行動します。これらは別々の機能としてあげられていますが、知性と心と意思とが合わさって、私たちという存在に欠かせないものとなっています。

人間は理性的で道徳的な存在だという概念は、よく構成的相似と呼ばれます。最初に造られた人たち(アダムとエバ)の中にある神のかたちには、機能的相似も含まれていました。機能的相似は、人類が初めに造られたとき、神に喜ばれるようなさまで考え、感じ、行動していたということを表しています。構成的相似は、人間性(personhood)と関わっており、機能的相似は、人が考え、感じ、行動するさまを指し、また、人格性(personality)も指します。まだ堕落の前、初めて造られたときに、人間は人格性や人間性の面で、神に似たものとして造られました。

堕落以来、人間は生まれつき罪深い性質を備えています。つまり、本質的に罪を犯しやすい存在となりました。私たちのこの持って生まれた状態を「原罪」と言います。人類が堕落した後、神との構成的相似性はいくらか損なわれたものの、私たちのうちに残りました。私たちは今も理性を持って、考え、感じ、行動します。しかし、神との機能的相似性を失ったので、もはや神と似たような考え方、感じ方、行動の仕方を自然とすることがなくなりました。私たちの潜在意識は、もはや義なる考え方、感じ方、行動の仕方をもって神の方を向いてはおらず、罪を犯しやすくなっています。

イエスの死と復活への信仰による救いは、私たちの人生における罪の力を打ち破ります。罪に終止符が打たれるわけではありませんが、私たちに対する罪の力が変えられます。救いは、私たちと神との関係を変えます。キリストが罪のない人生を送り、十字架上の死によって犠牲を払ってくださったことで、私たちはもはや罪の束縛のもとにはいません。神はもはや、私たちを罪あるものと見てはおられません。私たちは神から離れた存在ではないのです。[7] そうなるまで、私たちは罪の力のもとにありましたが、救いを通してその力が打ち破られました。罪が支配する領域から救い出され、神の恵みの領域へと移されました。

救いは、私たちがもはや神の御前に罪ある存在ではないという意味で、残りの人たちとは別のものとします。義なるものであると宣言されたのです。新しく生まれ変わり、聖霊により新たにされて、変えられました。

新しく生まれ変わり、聖霊により新たにされたというのは、私たちの人生に変化が訪れたということです。この変化には、「御子のかたちに似たもの」となることも含まれます。[8] 御子のかたちに似たものになるとは、キリストに似たものとなるために私たちの考え方や感じ方、行動を変えていけるように、私たちの人生を調整することであると捉えられます。そのためには、いわば、潜在意識において変わり、プログラムの配線をし直す必要があります。私たちの考えや言葉、行動は意識レベルで行われますが、それは潜在意識レベルに存在する内なる基本的性質の表れだからです。このような人生の変化・変貌を神学用語で「聖化」と呼び、それは聖霊の働きによって神のさまへと漸進的に成長していくことを指します。

使徒パウロは、主の栄光のかたち・姿へと変えられていくプロセスについて、このように語っています。「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。」[9]

ここで「変えられて」と訳されているギリシャ語の言葉の原形は、外面的変化よりも内面的変化を指しています。パウロはこの言葉を使うことによって、クリスチャンの内面的性質における根深く根本的な変化について語っていたのです。これは人格(先述の定義のように、私たちの考え方、感じ方、行動の仕方を指します)の変化であり、内なる自分を配線しなおすことです。この根本レベルにおける変化は、私たちの考え、感情、行動を神の性質に沿ったものとしてくれます。私たちの内面生活(知性、心、意思)におけるそのような変化は、外面生活に必ずあらわれます。私たちの外面的な行動は、人格という内面的な現実から生じるのです。

キリストのかたちに変えられ、近づけられることは、救いによって可能です。救いは、私たちを人生における罪の支配力から解放し、意識的にも潜在意識的にも、より神の御心に沿ったさまで考えたり行動したりできるようにしてくれます。別に私たちが罪を犯さないということではありませんが、それによって私たちはキリストに似たものとなっていくことが可能となり、罪に束縛された以前の状態から離れることができるのです。私たちの内には今でも罪深い性質が残っていますが、罪はもはや私たちに対して同じ力を有してはいません。私たちは人間なので転落することもありますが、自分の奥深くでは、正しいことをしたいと望んでいます。罪はもはや私たちを支配することがなく、かえって私たちは罪から離れることによって、神に近づきたいと望んでいるのです。

神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。[10]

神に近づくことは、罪から離れることです。

本記事は、F・リロイ・フォーラインズの著書『Classical Arminianism』 [11] からのキーポイントをもとに書かれています。
初版は2016年7月 2019年4月に抜粋と再版
朗読:ジェリー・パラディーノ


1 ローマ 13:12.

2 ローマ 13:14.

3 エペソ 4:22–24.

4 創世記 1:26–27.

5 ローマ 2:14–16.

6 マタイ 22:37; ローマ 14:5; ヘブル 8:10.

7 コロサイ 1:19–22.

8 ローマ 8:29.

9 2 コリント 3:18.

10 ヤコブ 4:8.

11 Nashville: Randall House Publications, 2011.

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