主にあって強くなる

11月 8, 2018

Being Strong in the Lord
November 8, 2018

マリア・フォンテーン

オーディオ所要時間: 5:49
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「ところが、主が言われた、『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる。』 それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。」—2 コリント 12:9

これまでずっと、告白や弱さを認めるという話題を取り上げてきましたが、それはクリスチャンが、自分たちが常に強く「完璧」であらねばならないと、勘違いしがちだからです。中には、完璧になれないなら、少なくとも完璧であるように見せかけるか、完璧な人間を演じなければならないと感じる人々もおり、そういう人たちは、自分が何らかの過ちを犯したことや、試練や弱さがあることを、誰にも知られないように努めました。それによって、主にあって強くなる[1] とはどういうことなのかについて、誤ったイメージを与えてしまったのです。

とは言え、ただ弱くなりたいからという理由で弱くなることが、最終目的ではありません。私たちの弱さは、主の御力を示すためのものであり、パウロも言ったように、私たちに「キリストの力が宿る」ためにあるのです。それが正直に弱さを告白する目的です。つまり、主が強いお方であられ、私たちが弱くても、主は私たちにの内におられて強いことを示すためです。主の強さは、私たちの弱さを通して表れるのです。

もちろん、自分たちの弱さを「喜んで誇る」[2] といっても、床に落ちたゼリーのように弱々しい存在になるべきであるなどと考えてほしくはありません。一体そんなものが、どんな目的を果たし、どんな証しになるというのでしょう? 人々はそれを見て言うでしょう。「あの哀れな人を見てごらん! 主や福音はあまり役に立たなかったらしい。神は人生で奇跡を起こされる方であると思っていたのだが。神の御力が、私たちの弱いところに表れるんじゃなかったのか。」

私たちは、主の強さを示すために、自分たちの弱さを用いることができます。神の力は、私たちの弱いところに完全に表れるのです。[3] 御言葉には、「主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。」[4] とあります。私たちは強くあるべきですが、その強さを自分自身ではなく、主の内に見いだします。私たちの力が主の内にあることが、他の人々にも理解できるよう、自分の人間的な弱さや至らなさを、正直に認めなければなりませんが、同時に、弱い面を強めるために戦い、主がそれらを乗り越えさせて下さっているのだと他の人々に証言することで、主の御力を示すのです。

人間は誰しも、何らかの面で弱さを持っています。至らない点を正直に認めるなら、主が私たちを通して働かれる時に、その功績や栄光が主に帰されるようになり、人々はそれが、私たちの内に完全に表された、主とその御力であることを知るでしょう。自分の弱さを認めたなら、その後は戦って、主にその御力を示して頂かなければなりません。どんなことが達成されたとしても、その功績が主に帰されるようにです。[5]

主は私たち全員に、生まれた時からある程度の力を与えられています。私たちは、救われて主に仕え始める前のことも含め、生涯を通じて、他にも数々の力を身につけてきました。中には並外れて強いか、特定の分野において強い人々もいます。ある分野において強く、その強さを用いて主のために何かを成し遂げているなら、当然、主に功績や栄光を帰することが大切です。そしてそれが「最初から備わっていた生来の」強さであると思われる場合には、それが明らかに奇跡的で超自然的なものである場合よりも、声に出して主に栄光を帰することが、一層大切でさえあるのです。さもないと、それがただあなた自身ではなく、あなたの中で働いておられる主なのだということを、大抵の人は知る術もないでしょう。

中には、そう容易には気を逸らされない人もいます。彼らは一心に物事に取り組み、私的な問題に動揺したり、思い悩んだりしないのです。何が起ころうとただすべきことをし、自分の問題について心配することに、あまり多くの時間を費やしません。それらをものともせずに、主のために進み続けるのです。そのような生来の強さを備えている人々に関しては、そもそも彼らをそのように造り、それらの強さをお与えになったのは主なのだということを、覚えていなければなりません。

「あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。」[6] 主がおられなければ、私たちはここに存在せず、生まれてもいなかったでしょうし、何ひとつ持っていなかったでしょう。たとえ非常に強く善良な性格を持って生まれてきたとしても、それもやはり主の御わざなのです。私たちに賜物をお与えになるのは、主です。それらはすべて、主の着想なのです。私たち一人一人に異なる賜物があり、皆が異なる強さや弱さや、能力や無能さを持っています。[7]

聖書には、神の力は私たちの弱いところに完全に表れると書かれています。[8] つまり、私たちの弱さによって、主の強さが明らかになるのです。御仕事を遂行するためには、強さが必要です。主は私たちに、「主にあって、その力によって強くなる」よう諭しておられます。

要するに、私たちは主にあって強くあるべきだということです。私たちが持とうと努めているのは、そのような強さです。弱さを認めて告白することもできますが、そのことばかり考えていてはいけません。いったん弱さを認めたなら、主のために良い働きができるよう、主が自分たちを強めて下さることに気づき、感謝する必要があるのです。

「自分の神を知る民は、堅く立って事を行います。」[9] それが目標です! ですから、「主にあって、その偉大な力によって強く」なろうではありませんか。[10]

初版は1989年6月 2018年11月に改訂・再版
朗読:イレーヌ・クイティ・ヴェラ


1 エペソ 6:10.

2 2 コリント 12:9.

3 2 コリント 12:9.

4 エペソ 6:10.

5 2 コリント 12:10.

6 1 コリント 4:7.

7 1 コリント 12.

8 2 コリント 12:9.

9 ダニエル 11:32.

10 エペソ 6:10.

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