引用文集
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子どもの頃、うちにはあまりお金がありませんでした。必需品に事欠いたことは一度もありませんが、何の憂慮もなしに気軽に何かを与えることができるほど豊かだったことも、ありません。
17歳の時、あるホームレスに施しを求められました。与えるなら良いことがあると教えられていた私は、帰りの電車賃にどれだけ必要かを計算して、残ったお金を彼にあげました。500円、つまり7ドル程度の額を。なけなしのお小遣いを与えるのは、楽なことではありませんでした。7ドルを与えたから、これだけの額を返してもらえたと、正確に言うことはできませんが、長年にわたって、自分が「返報の法則」を信じるに十分なだけの額を、返してもらってきたと確信しています。
イエスは返報の法則を、次のように表現されました。「与えよ、そうすれば自分にも与えられる。あなたが与えたものは、あますところなく与え返される。人々はもっと入るように、押し入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでにあなたに与えてくる。あなたが与える分に応じて、自分にも与え返されるのだ。」[1]
ここで「あなたが与えるのと同じ分量が、自分にも与え返される」と言われていないことに注目して下さい。「与える分に応じて」と言われているのです。事実、何かを与えると、与えたよりも多くのものを受け取ることがよくあります。イエスに自分の昼食を与えた少年のように。[2] そこには必要がありました。5000人の空腹な人々です。それに対して少年が捧げたものは、5つのパンと2匹の魚でした。一見、大した量ではありませんでしたが、イエスがそれを用いてされたことをご覧なさい!
私の2歳の甥っ子は、食べ物を人に分けることが好きです。何を食べていようと、それを好きであろうとなかろうと、いつも私にも口にしてほしがるのです。たとえそれが、自分の大好きな味のポテトチップスやアイスクリームであっても。どうやらもとの場所にまだ沢山あると確信しているようで、それで簡単にあげてしまうのでしょう。しかし私たち大人は、物はなくなるものであるとわかっており、そのせいで与えるのが難しいのです。
しかしそのような時、つまり親切心や憐れみや時間など、何であれそれが最後のひとかけらであるように感じられる時にこそ、神がもとの場所にもっと多くをお持ちで、それが尽きることを心配しておられないことを、思い出すべきです。—ロアルド・ワタ―ソン
収穫の原則
「このことを覚えていなさい。惜しんでわずかしか蒔かない者は、刈り取りもわずかで、惜しまず豊かに蒔く者は、刈り取りも豊かなのだ。各自はしぶしぶではなく、また強いられてでもなく、心で決めたとおりに与えるべきである。神は喜んで与える人を愛して下さるのだから。」—2 コリント 9:6–7 [3]
種蒔きと収穫の原則は、経済だけではなく、人生のあらゆる分野に当てはまります。何であれ人生で蒔くものは、必ず刈り取ることになるのです。預けたものは必ず戻ってきます。人生において批判を蒔くなら、他の人から批判を受けるようになるでしょう。親切な行為を蒔くなら、親切な行為を刈り取ります。それは収穫の法則なのです。リンゴの種を蒔けば、梨ではなく、リンゴを収穫します。惜しみなく与えるなら、惜しみなく与えられるのです。
これが収穫の原則です。何かが必要になれば、そのたびに種を蒔きましょう。農夫が裸の土地を見る時、彼はそれについてぶつぶつ言ったりせず、ただそこに種を蒔き始めます。種が少ししかないなら、彼には選択があります。それを蓄えておくか、与えるかのどちらかです。ずっと持ったままでいるなら、それ以上は増えません。与えてしまうなら、神が増やして下さいます。しかも驚いたことに、蒔いた分だけを刈り取るのではなく、蒔いた以上に刈り取るようになるのです!
神がこのように定められたのは、あなたがご自分のようになることを望んでおられるからです。神は与える神であられ、神のようになる唯一の方法は、惜しみなく与えることを学ぶことです。けちけちしているなら、まるで悪魔のようですが、惜しみなく与えるなら、神のようになるのです。与えるなら、神がそれを増し加えて下さいます。
困窮している時に、より多くを与え返してもらえるよう、他に与えるというのは、理屈に合わないように聞こえますが、だからこそそれには信仰を要するのです! 神は、受け取る方法とは、それにしがみつくのではなく、与えてしまうことであると言われています。—リック・ウォレン [4]
歴史に残った57セント
「もういっぱいだから」と言われて中に入れなかった少女が、むせび泣きながら、小さな教会のそばに突っ立っていた。「日曜学校に行けないの。」 少女は通りかかった牧師に、涙声で言いました。そのみすぼらしい格好やぼさぼさの髪を見て、その理由がわかった牧師は、少女の手を取って中に連れて行き、日曜学校のクラスにその子の席を見つけてやりました。少女はとても感激し、その夜、イエスを礼拝する場所のない子どもたちのことを考えながら、床に就きました。
それから約2年後に、その子どもは死に、みすぼらしいアパートの一室に横たわっていました。彼女の両親は、葬儀の準備を委ねようと、少女と親しかった例の牧師を家に呼びました。彼女の痛々しい小さな体が動かされると、どこかのゴミ捨て場を漁って見つけたと思われる、くたびれてしわくちゃになった財布が出てきました。中には57セントと、子どもらしい筆跡で次のように書かれた紙片が入っていました。「もっと大勢の子どもが日曜学校に通えるように、小さな教会をもっと大きく建て替えるために、これを役立てて下さい。」
彼女は二年間、この愛の献金を貯め続けていたのです。目に涙を浮かべてその走り書きを読んだ時、牧師はすぐに、自分のすべきことを悟りました。彼はこの走り書きと、ひび割れた赤い財布を手に説教段に上り、少女の利他的な愛と献身の物語を語ったのです。そして執事たちに、より大きな建物を建てるに十分なだけの資金を集めることにすぐ取り掛かるよう挑みました。しかし、この話はそれで終わりではありません!
新聞社がその話を耳にして記事にすると、ある不動産業者がそれを読んで、数千ドル相当の土地について話を持ちかけてきました。そんな大金は払えないと答えると、その業者は、それを57セントで売ろうと申し出たのです。
教会員たちは多額の献金をしました。小切手も至る所から送られてきました。例の少女の贈り物は、5年間で25万ドルに増え、それは当時(20世紀初頭頃)かなりの大金でした。少女の利他的な愛が、大きな結果をもたらしたのです。
フィラデルフィアへ行くことがあれば、テンプル・バプテスト教会を訪れてご覧なさい。そこには3千3百人分の会衆席や、大勢の学生たちが学ぶテンプル大学があります。それから、「良きサマリヤ人病院」や、何百人も入れる日曜学校の建物も見ておくといいでしょう。おかげでその地域の子どもの誰一人として、日曜学校の時間に外に置き去りにされることはありません。
この建物の一室で、愛らしい顔をした少女の絵が見られるかもしれません。あんなにも犠牲的に貯めた57セントによって、歴史に残る驚くべきことをなした少女の絵が。そしてその隣には、あの心優しい牧師ラッセル・R・コンウェル博士の肖像画が掛けられています。—ケイ・マクレイリーの寄稿による実話
2018年11月にアンカーに掲載 朗読:ジェリー・パラディーノ
音楽:マイケル・ドーリー