とらわれない視点を持つ

3月 5, 2018

Liberating Our Perspectives
March 5, 2018

マリア・フォンテーン

オーディオ所要時間: 5:28
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あなたは、試練や苦闘や、はまり込んでしまった困難な状況を見て、自分がしてしまった間違いの結果そうなったのではないかと思うことはありますか? もしかしたらあなたは闘病中で、自分の霊的コミットメントに応じた生き方をしていかなったために、神の懲らしめを受けていると思っているのでしょうか? あるいは、その苦闘を信仰が弱いことのしるしとして見ているでしょうか?

人生の出来事をそういった視点で見ることは、神があなたの間違いや欠点や罪に腹を立てたり怒ったりしておられるという思い込みから生じます。確かに神はあなたがもっとよくやれるよう学んでほしいでしょうが、あなたの人生に置かれる神の御手を、怒りと裁きの手として見ているとしたら、果たしてそれがイエスの愛や模範に矛盾していないかどうか、自問してください。神があなたに与えてくださったすべて、してくださったすべてを考えてみてください。神はご自分がすでに払った代価をあなたに払わせるようなことはなさいません。主はあなたの人生に起こるすべてを使って、良いものや美しいもの、また神があなたを創造した時に備えられた資質をそこから引き出してくださるのです。

あなたがイエスを愛するより先に、イエスが愛してくださったことを覚えていましょう。[1] イエスの目的が、弱さや失敗や罪ゆえにあなたを罰することだとしたら、それは今までイエスがあなたにしてくださったすべてのことと矛盾しているように思えます。そうだとすれば、なぜイエスは地上に来てあなたのために死に、あなたのすべての罪を負われたのでしょう? 主は私たち一人一人が犯すミスや罪をすべてご存知です。私もあなたも皆間違いを犯し、時には意図的に主の助言を無視するであろうことを、主はご存知だったのです。それなのに、主はこんなに多くの欠点を持つ私たちを見て、それでもなお、どんなことをしてでも私たちを助け出そうとするほど、私たちを愛してくださいます。主はすでにゆるしてくださったのですから、それに対する懲罰を私たちに受けさせることが主の目的であるはずがありません。

イエスは私たちの長所や祝福を最大限に伸ばすことに関心がおありであると、私は思っています。主は天の御国のCEOのようです。いったいどんなCEOが、可能性を最大限に伸ばすよりも、罰や裁きを与えることに関心を持つでしょう? 良いCEOなら誰でも、会社の従業員がベストを尽くせるよう、彼らを強めることに意識を向けるでしょう。主の目標もそれだと思います。主は私たちが主のためにベストを尽くせるよう、あらゆるチャンスを提供しておられます。

ですから、私たちの経験する試練が、私たちが完璧でないことに対するイエスの懲罰でないとしたら、私たちが直面する問題には、神の性質や神が私たちのためにしてくださったすべてのことと相反さない、別の目的があるはずです。

地上で生きるということは、時として戦いや、孤独な時、落胆、悲しみ、苦しみ、挫折、ビジョンの喪失をもたらします。私たちは激しい絶望や混乱や、良きわざをするのにうみ疲れることがあります。でも、私たちには、イエスに頼ることを選ぶ自由が常にあるのです。そして、イエスに頼ることを選んだ時、最も悲惨な状況が、深く、豊かで、より深く主を理解することと、主とのより近い関係をもたらしうるのです。

問題がどのように起こったかとは関係なく、イエスはそのような挫折や問題をとって、良き目的のために使うことができます。主を愛する私たちは、御心の時になれば、主はそれらのことから私たちの人生に何らかのより良いものをもたらしてくださると信頼することができます。

イエスは、主なしでは地獄であるはずのものを、深い信仰や強い決意に変えることがお出来になり、将来と向き合って私たちの召しを成し遂げることを可能にする、いつまでも続く主への愛へと変えてくださいます。主と一緒に歩くなら、どんな困難をも切り抜けられます。なぜなら、主が導いておられる小道をたどれば、神の栄光と愛の光の中で永遠に神の御前に宿ることができ、主が約束された真に偉大で想像を超えた素晴らしい報酬を受け取ることができるからです。[2]

時として消耗させられる悩み苦しみは、何が一番大切なのかに目を向けさせてくれます。状況に対する絶望感や、現状に対する欲求不満を抱いたり、通常通りに続けることができなくなったりすると、イエスとのより深く、しっかりした、絶たれることのないコミュニケーションが必要だと気づくことがよくあるものです。

イエスの愛が、私たちを助けるために自ら苦しまれたことに現れたように、私たちの中にある主の愛も、他の人を助けることに使われることができます。私たちはそれぞれ未完成作品ですが、この小さな一歩一歩を他の人たちを助けるための手段として使えないということはありません。霊的勝利へと進んでいる途中であっても、信仰を分かち合うことは、途方もない混乱状態や落胆の時を経験し、ビジョンの喪失に苛まれている人たちに、助言や答えや希望という形で提供できるものを与える助けになるのです。私たちのためにイエスが与えてくださった自由、喜び、恵み、憐れみについて学んでいくなら、私たちはイエスの性質や、今から永遠に至るまで、私たち自身の生活の中でいかにして主に倣うべきかを、もっとはっきり理解できるようになるでしょう。

初版は2015年8月 2018年3月に改訂・再版
朗読:イレーヌ・クィティ・ヴェラ


1 1 ヨハネ 4:19.

2 1 ペテロ 4を参照.

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