引用文集
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主よ、いつまでなのですか。とこしえにわたしをお忘れになるのですか。いつまで、み顔をわたしに隠されるのですか。
いつまで、わたしは魂に痛みを負い、ひねもす心に悲しみをいだかなければならないのですか。‥‥
しかしわたしはあなたのいつくしみに信頼し、わたしの心はあなたの救を喜びます。
主は豊かにわたしをあしらわれたゆえ、わたしは主にむかって歌います。—詩篇 13:1,2,5,6
悲しみについて聖書は何と言っているか
悲しみは、人が皆一様に経験する感情であり、聖書の物語には、至るところに悲しみの過程が見られます。ヨブやナオミやハンナやダビデといった、聖書の登場人物の多くが、深い喪失感や悲しみを経験しました。イエスさえも、悼み悲しまれたのです。[1] 主はラザロの死後に、彼が葬られていたベタニヤの村に赴かれました。マルタを始め、彼の死を悼む人々がすすり泣いている様子をご覧になり、主もお泣きになりました。彼らの悲しみと、ラザロが死んだという事実に、その心が動かされたのです。驚くべきことに主は、ご自分がラザロを死からよみがえらせることをご存じだったにもかかわらず、その場の人々と共に悲しむことを選ばれました。イエスは実に、「私たちの弱さを思いやる」ことのできる大祭司であられます。[2]
悲しみを乗り越える一つのステップとは、それを正しい見方で受け止めることです。第1に、悲しみ嘆くことは、苦悩や喪失に対する自然な反応です。何も悪いことではありません。第2に、私たちは、悲しみの時期には目的があることを知っています。伝道の書7:2には、「悲しみの家にはいるのは、宴会の家にはいるのにまさる。死はすべての人の終りだからである。生きている者は、これを心にとめる」とあります。この節は、悲しみは人生を新たな観点から見られるようにしてくれるので、益をもたらし得ると示唆しています。第3に、私たちは悲しみが一時的なものであることを覚えています。「夜はよもすがら泣きかなしんでも、朝と共に喜びが来る。」[3] 嘆き悲しむ時期にも、やがて終わりが来ます。悲しみには目的があるものの、それが無限に続くことはないのです。
そのような時期にも、神は忠実でいて下さいます。嘆き悲しんでいる時に、神の忠実さを思い起こさせてくれる聖句は、数多くあります。神は死の陰の谷においても私たちと共にいて下さいます。[4] ダビデが悲しんだ時、彼は詩篇56:8の中でこう祈りました。「あなたはわたしのさすらいを数えられました。わたしの涙をあなたの皮袋にたくわえてください。これは皆あなたの書にしるされているではありませんか。」 私たちの涙をたくわえて下さる神という、心に触れるイメージには、非常に意義深いものがあります。神は私たちの悲しみをご覧になり、それを軽んじたりはされません。イエスが死を悼むベタニヤの人々と共に嘆かれたように、神も私たちと共に悲しんで下さるのです。それと同時に神は、すべてが失われたわけではないと、安心させて下さいます。詩篇46:10は、私たちが静まり、神が神であられることを知って安らぐよう、思い起こさせてくれます。神は私たちの避け所であられるし、[5] ご自分が召されたすべての人々にとって、万事が共に働いて益となるようにして下さるのです。[6]
悲しみを乗り越えることにおいて重要な一要素とは、それを神に打ち明けることです。詩篇には、神に心を注ぎ出す例が無数にあります。興味深いことに詩篇作者は、決して始めた時と同じ調子で終わることはありません。悲しみの表明で詩篇を始めたとしても、ほとんど決まって、それを賛美で終えているのです。[7] 神は私たちの思いを理解して下さいます。[8] 神と交わる時、私たちは神が愛して下さり、忠実で、主導権を握っておられ、万事を共に働かせて、私たちの益とする方法をご存じであるという真理に対して、心を開くことができるのです。
悲しみを乗り越えるもう一つの大切なステップは、それを他の人に打ち明けることです。キリストの体は、個々の肢体の重荷が軽減されるよう造られており、[9] 信者仲間には、「悲しむ者と共に悲しむ」能力が備わっています。[10] 悲しみはしばしば人を遠ざけ、孤独感や惨めさを一層増し加えます。だから、誰かに相談する方がずっと健全であり、グループ環境は、計り知れないほど貴重なものになり得ます。グループは、話に耳を傾けてくれる相手や、助けになる励ましや兄弟愛や、悲しみを乗り越えるための導きを与えてくれます。自分の話を神や他の人々に打ち明けるなら、悲しみも和らぎます。
残念なことに、悲しみは人間であれば誰もが経験することです。大切な人を失うというのは、人生につきものであり、悲しみはそれに対する自然な反応と言えるでしょう。しかし、私たちにはキリストの希望があり、主が自分たちの荷を引き受けて下さるほど強い方であるとわかっています。[11] 傷ついた心を、主に委ねることができるのです。主は私たちを顧みていて下さるのですから。[12] 私たちは、助け主(慰め主)である御霊の内に、慰めを見いだすことができます。[13] 悲しんでいる時、私たちは荷を主に委ね、教会の仲間たちに頼り、御言葉の真理を深く探り、最終的には希望を見いだすのです。[14]—gotquestions.orgより [15]
喪失感を耐え忍ぶ
ある朝早く、海を見下ろす小さな病院で、息子が息を引き取った時、まるで周りの世界が静止したように感じました。開いた窓から大きな黄色い蝶が、ひらひらと舞い込んできて、まるで神が、ご自身の見えない世界にスティーブを優しく連れ去られたのだと、安心させて下さっているように感じました。それでも息子を失った衝撃は大きく、他の皆が悲しみから立ち直ったずっと後になっても、まだ混沌とした精神状態が続いていました。
周りのほとんど誰もが善意から、「忘れて先に進みなさい」と助言してくれましたが、一体どこへ進めばいいのでしょう? そしてどうやって? 心の奥底では、私は活気に満ちた年若い息子を奪い去られた神に、苦々しい怒りを抱いていました。裏切られ、空っぽになった様に感じていたのです。数ヶ月が過ぎても心は重いままで、死んでしまった息子のことを、何度も繰り返し考えました。
やがて、神と毎朝ポーチで会って、自分のつらい思いを打ち明けようと決心しました。何日も、そしてその後何週間も、すべての悲しみや悔恨の念や、起こったことに対する怒りを、神に注ぎ出したのです。「もし聖書にあるように、愛があなたの本質だというなら、なぜ私と息子に、あんなひどいことをされたのですか」と何度も繰り返し尋ねました。
神は何と辛抱強く、忍耐のある聞き手であられたことでしょう。
私は泣き、嘆願し、論じました。ついにある朝、言いたいことをすべて言い尽くし、感情を残らず注ぎ出したと感じるまで。その時です。ようやく神と和解する気になったその時、穏やかな安らぎが私の心にあふれました。神は静かな声でなだめるように、心に語りかけ始められました。それからというもの、神とのポーチでの密会は、別の方向に向かい始めました。私は神に耳を傾けて、神から慰めを受け、心の痛みを和らげていただくようになったのです。—アイリス・リチャード
苦しみや悲しみについてのビリー・グラハムの言葉
愛する人々の死は、私たちクリスチャンにとっても、心の痛むものです。それは彼らのことを不安に思うというよりも、彼らがいないせいで、心にぽっかりと穴が開いたように感じるからです。聖書は私たちが、「望みを持たない外の人々のように悲しむことはない」と述べていますが、私たちもやはり悲しいのです。[16]
相手を愛していればいるほど、その人を恋しく思い、彼らと天国で再び会える日を、心待ちにすることでしょう。
私たち全員にとって、人生で直面する最もつらい経験の一つとは、心から愛している誰かと死別することです。ましてや、その死が思いがけない時に襲い、相手に最後のお別れを言う機会もなかったとしたら、なおさらです。
おそらく、私が皆さんに言える最も大切なこととは、神が皆さんを愛しておられ、皆さんがどんなにつらい思いをしているかを、ご存じであるということです。友ラザロの墓のそばに立っておられた時、イエスはご自分が、間もなく彼をよみがえらせることをご存じでした。それでも、聖書には「イエスは泣かれた」とあります。[17] これは聖書で最も短い文章ですが、嘆き悲しむ人々に対する、キリストの憐れみについての大切な真理を表しています。聖書には、「主の大いなるいつくしみゆえに、私たちは滅びることがない。主の憐れみはいつまでも尽きることがないからである。」とあります。[18]
あなたはいつまでも[愛する人のことを]覚えており、その人が死んだ悲しみは、すぐには消えないでしょう。しかし時が経てば、心の痛みも和らぎます。そして神は、それまであなたを助けたいと望んでおられるのです。あなたには何ができるでしょう? まずは、その人と一緒に過ごした時間を、毎日神に感謝しましょう。感謝は私たちの魂をいやしてくれる、香油のようなものです。
悲しんでいる人々に手を差し伸べることができるよう、神に願い求めましょう。彼らには、あなたの励ましが必要です。そしてあなたも、彼らの励ましを必要としているのです。何よりも、一人で重苦しい気持ちを抱え込まないで、それをキリストに委ねましょう。聖書には、「あなたの荷を主にゆだねよ。主はあなたをささえられる。主は正しい人の動かされるのを決してゆるされない」とあるのです。[19]—ビリー・グラハム師
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「この上なく暗い谷を歩く時でさえ、私は災いを恐れません。あなたが共にいてくださるのですから。あなたの鞭と杖、それが私を慰めます。」—詩篇 23:4 [20]
2018年6月アンカーに掲載 朗読:ジョン・マーク 音楽:ジョン・リッスン