デジャブ

4月 18, 2018

Déjà Vu
April 18, 2018

ルース・デービッドソン

誰でも1度や2度はデジャブ(既視感)を経験したことがあるでしょう。あらわれ方は千差万別であり、あまり意味がなさそうなものもあれば、とても特別なものもあります。過去の素晴らしい思い出がよみがえることも多々あります。私が特に好きなのは、それがまったく思いがけない時に起こるという点です。いくつかのデジャブについては、主が起こされているのではないかと思うこともあります。そうだといいなと思います。私たちが過去に既に見たことや経験したことを使って記憶をよび覚ますのは、主が好まれることではないでしょうか。

最近デジャブを経験しましたが、それは主によるものだったと信じています。それが起きたのは、シャワーから出ようとして、スツールでひざを擦りむいた時です。普通ならなんとも思わないことだし、痛みもなかったのですが、膝の内側の出血がひどく、包帯をするにも時間がかかりました。その日は忙しい日で、することが山ほどあったため、ひざを擦りむいて、そのために時間を取られるのは厄介で嫌なことでした。

その小さな出来事の後、気持ちを落ち着けていた時にデジャブが起こりました。傷は大したことなかったのですが、少し前のハリケーン・ハービーであらゆる所の水が汚染されていたので、特にきちんと手当をしていました。不都合なことではあったけれど、すべてについて主を信頼することを思い起こしていた、ちょうどその時、ある聖書の節が思い出されました。まるで誰かが話しているように、こんな声が聞こえたのです。「それは主である。どうぞ主が、良いと思うことを行われるように。」 私は「これについて何かいいことなんてあるんだろうか」と思いましたが、その節の最初の「それは主である」の部分を繰り返して言ってみると、完全に心が落ち着き、安心したのです。

私は、聖書の1つの節が、多くの道、入り組んだ道を導いてくれるのが大好きです。その節に関係する箇所や前後の箇所を読むのが好きで、それは私にとって、なぞなぞを解くというか、ジグソーのパズルを合わせるようなものです。真珠を繋げてネックレスにするようなもの、と言った方がいいでしょうか。そうやって、どのようにして自分の状況に当てはめたらいいかを見ていくのです。私は腰掛けて、先ほどの節が聖書のどこにあるのか調べました。すると、サムエル記上3:18だとわかり、その章を読んでいた時に、まさしくデジャブが起こったのです。突然47年前に戻されました。当時、同じ章を読んでいるだけでなく、必死になって、まだ生まれぬ子どものためにその言葉を要求していたのでした。

私たち夫婦はロサンゼルスに住んでおり、そこで宣教の仕事をしていました。仕事柄、日々、祈りの答えを目の当たりにし、イエスによって人生が変わったというテスティモニーには事欠きません。ある日、私たちは出産に立ち会って手助けをする機会に恵まれ、それはとても特別なことでした。祈りと信仰に包まれる中、目には見えなくても、天使がいるのが感じられたほどです。とても美しく霊的な経験で、夫の方を見ると、息子を持つのが彼の心の願いだというのが見て取れました。私はその2ヶ月前、流産をしたばかりで、すでに2人子どもがいましたが、もう一人産めるかは疑問でした。シストと右の卵巣の摘出をしてから体調が優れなかったので、もう一人産めるような体ではないんじゃないかと思っていたのです。けれども、ひそかに祈りと願いを主に送りました。サムエル記上でハンナがしたのと同じように。無理かもしれなくとも、主が私の嘆願を聞いて、望みを叶えてくださることを願ったのです。

その祈りと願いから間もないときに、最初の裏付けをもらいました。いつもの朝の祈りのミーティングに早く着いたので座って待っていると、預言の賜物のある一人の同僚が私のところに来て、目をつむり、優しく私の頭に手をおき、こう言ったのです。「あなたは男の子を生むであろう。」 びっくりし、嬉しさが込み上げました。驚きでいっぱいの声で、「妊娠してるっていうこと?」 と尋ねると、その人はためらうことなく確信を持って、「主がそう言われたよね」と言ったのです。

その時から、それを主が直接語ってくださったことと考え、その約束のままになるものとして行動しました。普段の忙しい日課を変えて、その先の何ヶ月かへの備えとしてペースを落としました。サムエル記上1:27の「この子を与えてくださいと、わたしは祈りましたが、主はわたしの求めた願いを聞きとどけられました」という節を思い、信仰が与えられました。このような前例が聖書にあり、私の状況が聖書のハンナの状況と重なるように思えたのです。これらの節のおかげで、子どもを求めて祈る信仰が生まれました。私が実際に妊娠していることがわかったときの喜びといったら言葉に表せないほどです。

妊娠数ヶ月の時に、証しのグループでビーチに行く準備をしていたのですが、出血があったので、すぐに部屋に戻り、私の大好きな本を手にしました。「み衣のすそ」という本で、横になって最初から最後まで読むと、この信仰を強めてくれる小さなデボーショナルな本を通して、主がすでに約束されたことを信じるだけの勇気をもらいました。しばらくベッドで安静にしていることなど、夢が叶うことを考えたら、なんでもないことでした。

ルースとナサニエル(1971年5月29日)

その時が来て臨月となり、自然分娩で健康体の赤ちゃんが生まれ、ナサニエルと名づけました。私たちの期待をはるかに上回る、願っていた以上の子どもでした。

出産はどれも、それぞれ違った形で奇跡だと私は信じています。子どもの誕生ほど素晴らしいものがあるでしょうか? それに匹敵するものなどありません。神だけが、花や夕焼け、葉っぱ、そしてもっとも尊いものである赤ちゃんを創ることができます。どの出産も驚きです。私自身、多くの赤ちゃんの出産に立ち会う機会に恵まれました。生まれたての赤ちゃんは泣きますが、私も、出産に立ち会う度に、喜びの涙を流します。自分の子どもの時もそうでした。考えてもみてください。私たちは神のかたちに造られているのです。それこそ、神の創造の奇跡ではないでしょうか!

というわけで、膝を擦りむいたことから、不意にデジャブ体験をして過去に戻り、自分のサムエル記上のストーリーを思い出したのですから、それは怪我の功名でした。詩人ウィリアム・カウパーが言った通りです。「神は不可思議な形で素晴らしい業をなさる。湖に足を踏み出し、荒海の上を行かれる。」

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