利他的な人生(パート1)

1月 11, 2018

The Unselfish Life—Part 1
January 11, 2018

「ロードマップ」シリーズより

オーディオ所要時間: 12:50
オーディオ・ダウンロード(英語) (11.7MB)

私たちクリスチャンは、他に与え、利他的に振る舞うことを人生の基盤とすべきです。他の人に与えることは、神の言葉にかなっているばかりか、「割に合うビジネス」であり、深い満足感を与えてくれます。どれだけ与えるかは各自が決めることですが、この点について下す決断が、私たちの成功や、主の愛の証し人としての見本を、大きく左右するでしょう。

利他的に振る舞えるよう、自ら鍛錬する方法は数多くあります。たとえば、励ましになる言葉や、時間や奉仕や金銭を分け合うといいでしょう。また、恵まれない境遇にある人を助け、クリスチャンの宣教活動を支援し、それに参加することもできます。

与えることは、人生における一つの行動規範です。それは他の人を思いやり、病人をいやし、力ある人にも貧しい人にも等しく時間を割かれたイエスのようになるという概念です。イエスは万人を愛されました。イエスは与えられました。もっとはっきり言えば、最後には私たちを救うために、ご自分の命を捧げるという究極の犠牲を払うほど、多くを与えられたのです。

もっとイエスのようになり、他の人に利他的に与える機会は、日々訪れます。私たちは他の人のために、自分の時間を捧げることができます。忙しいスケジュールの合間に時間を割いて、誰かに個人的に関心を注ぐことができるのです。ほんのひとときであっても、彼らを私たちの人生に招き入れ、関心を注ぎ、神の愛を分かち合うことができます。そうすれば彼らは、自分が大切な存在であると感じることでしょう。

一人一人に関心を注ぐことの影響力を、決して見くびってはいけません。誰しも時折、自分が唯一無二の大切な存在で、誰かから愛されていることを、思い起こしてもらう必要があるのです。

ヴィクトル・ユーゴーは言いました。「人生における至上の幸福は、愛されていると確信することだ。自分のことを、いや、もっと素晴らしいことに、こんな自分でも、愛してくれているのだと。」

以下の話は、個人的な関心という形で与えられた愛の尊さを物語っています。

ある年若い社会学の教授が、自分のクラスをボルチモアのスラム街に送って、そこの200人の少年たちにインタビューさせた後、彼らが将来どうなるかを予想させました。スラムの有様に衝撃を受けた学生たちは、自分たちがインタビューした少年たちの9割が、将来刑務所に入るだろうと予想しました。

25年後に同じ教授が、果たして予想通りになったかを、別のクラスに調べさせました。見つかった190人の内、懲役経験があったのは4人だけでした。

なぜそんなにも予想が外れたのでしょう? 彼らの100人以上が、人生の励みとなってきたオルーク先生という高校教師のことを覚えていました。長いこと探し回った末に、今や70歳を過ぎたシェリア・オルークが見つかりました。かつての教え子たちに、なぜそんなにも大きな影響を与えることができたのか教えてほしいと頼むと、彼女は困ったような顔をしていましたが、ついに口を開いてこう言いました。「ただ一つ言えることは、私があの子たち全員を愛していたということです。」—ジョン・コード・ラガマン

私たちクリスチャンは、他の人に慰めや祈りや、励ましや神の言葉の真理という、この上なく尊いものを与えることができるという恵みにあずかっています。永遠の喜びを手に入れるための秘密を、イエスの内に見いだしたのであり、死ぬ時に全世界と宇宙で最も愛しい方であられるイエスと、永遠に共に過ごせるようになると知っているので、心に平安があります。

どんな困難や逆境に面しても、私たちは常に他の人に、時間や奉仕や愛を与えることができます。そしてそうする時、私たちが切望する励ましや充実感といったものを、イエスが与え返して下さるのです。

以下のビリー・グラハムによる話は、この原則の一例です。

子どもたちが大きくなって家を出て行って以来、人生が退屈で仕方がないと手紙を書いてきた女性に、私はこう返事しました。「かつてはご家族が、あなたの時間や体力の大半を必要としていました。今やあなたは、ご自分の愛の範囲を拡張できるのです。ご近所には、あなたの理解や友情を必要としている子どもたちがいます。あなたの近くには、話し相手に飢えているお年寄りや、あなたがひどく退屈に感じているテレビを見ることすらできない、目の不自由な人々がいます。外に出て、他の人を助ける喜びを見いだされてはいかがでしょう?」

何週間か後に、また彼女から手紙が届きました。「ご忠告に従うと、うまくいきました! 夜から昼へと足を踏み入れたような気持ちです!」—ビリー・グラハム牧師

忙しすぎて、時間を割く余裕などとてもないと感じたことは、きっと誰にでもあることでしょう。あるいは、貧しすぎてお金を与える余裕はないとか、情緒的にも精神的にも疲れ果てて、思いやりや気遣いを示す余裕などないと感じたことが。そんな役目は「他の誰か」に任せて、自分はいつか余裕ができたらその埋め合わせをすればいいと考えてしまうのです。

けれども実際のところ、主は常にそう簡単に、私たちが責任を逃れられるようにして下さるとは限りません。主は井戸端にいた一人の女性を愛し、励ますために格別の努力を払われたのですから。[1] 消耗し、疲れ切っておられた時にも、その全員をいやされたのです。[2] 主が私たちのために命を捧げるという究極の犠牲を払って下さったというのに、愛や助けや奉仕や励ましを必要としている人たちに、私たちが与えないでいることなどできましょうか?

以下のような状況について考えてみましょう。

有名な元ニューヨーク市長のラガーディア氏が、かつて警察裁判所の裁判官を務めていた時のことです。震える一人の老人が、彼の前に連れてこられました。家族が飢えていたために、一斤のパンを盗んだかどで罪に問われたのです。「さて、私はあなたを罰しなければなりません。法に例外は許されず、あなたに10ドルの罰金を科すしかないのです。」 ラガーディア氏はそう言うと、自分のポケットに手を伸ばしました。「ここに、それを払うための10ドルがあるので、あなたの罰金を免除しましょう。」 彼は有名なぶかぶかの帽子に10ドル紙幣を投げ入れると、こう続けました。「さらに、この法廷にいる全員に、一人50セントの罰金を科します。人が食べていくために、パンを盗まなければならないような町に住んでいるかどでね。ベイリフ君、罰金を徴収して被告に渡してくれたまえ。」

帽子が回された後、老人は信じられないといった表情で、喜びに目を輝かせながら、47ドル50セントを手に法廷を去りました。—著者不明

すべてのクリスチャンには、生涯を通じて、他の人を祝福する数多くの機会が与えられています。そしてそうする時、驚くべきことに主は必ず私たちに与え返して下さるのです。人は神以上に多くを与えることはできません。聖書には、「少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる」とあります。[3]

以下にこの原則の一例を挙げましょう。

8年前に、スーザンは旧友のヘレンから手紙を受け取りました。ヘレンの姪は重度の拒食症で、自宅から何千マイルも離れたクリニックで高価な集中治療を受けなければ、死んでしまうというのです。しかしその治療費は、その家族が支払える額をはるかに超えていました。父親は失業中で、彼自身も体を壊していたからです。そこで、ヘレンの家族は親類や友人たちに手紙を書いて、援助を募りました。

スーザンは心動かされると同時に、ちょっと驚きました。たとえ相手が親戚であっても、人がそれほども公然と助けを求めることは珍しいからです。スーザンと夫にも3人の子どもがおり、与える額を決めるのは難しいことでした。「結局500ドル送りました。少なすぎるように思われますが、それでも私たちにとっては多すぎるほどだったのです」と、スーザンは言います。

しかし、他にも彼ら同様に、気前よく求めに応じた人々がいました。その少女は治療プログラムを受けることができ、一命をとりとめました。スーザンの話では、「彼らが手紙を送らなかったら、その子は助からなかったでしょう」とのことです。

3年後、スーザンの夫は職を失い、同時に深刻な健康問題を患いました。失業期間は1年をゆうに超え、スーザンの家族は貯金を切り崩して生活することを余儀なくされましたが、それもすぐに底をつきました。スーザンは働いていたものの、彼らは自分たちの経済状態が不安でたまりませんでした。

そんなある日、スーザンの知らないある女性から、一枚の葉書が届きました。それはヘレンの母親であり、拒食症だった少女の祖母です。スーザンとその夫が「つらい時期」を通っていると聞いて、助けたいというのです。財政的に苦しい時期がどれほど大変か、よく知っているからと。

スーザンはこう言っています。「低賃金のサービス業で働いて、女手一つで3人の子どもを育て上げたこの驚くべき女性は、私たちに2000ドルの小切手を送ってくれたのです。」

親切な行為のフルパワーを本当に理解するなら、思いやりと敬意と、惜しみなく与える気持ちをもって他の人に接する時、そのような親切な行為が、何らかの形で自分にも与え返されることに気づくことでしょう。しかも利子付きで。—リンダ・キャプラン・セイラーとロビン・コヴァル [4]

*

与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから。—ルカ 6:38

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他の人に愛を与えることは、それ自体満足のいく行為です。誰かの一日を明るくし、その荷を軽くしてあげたという達成感を感じるばかりか、その時こそ、あのよく言われる言葉通り、神の報酬の法則が作用するのです。「与えよ、そうすれば自分にも与えられるであろう。」

自分を幸せにしてくれる誰かを探している人は、おそらく自分が幸せにできる誰かを探すべきです。そうすれば、幸せの方があなたを見つけてくれます! 人は自分の蒔いたものを刈り取るからです。それはただ、神が設けられた霊の世界の一法則であり、重力の法則のような、物理学における科学的法則と同じくらい絶対的で、確実です。そして、霊の世界の法則は決してたがうことがありません! それらは常に作用します。それにどのような形で従うか、あるいは従うか否かによって、あなたにとって有利に、それとも不利に、働くのです。

幸せになり、他の人も幸せにしたいなら、神の内にある霊の充足感を追い求めなさい! この世の有様や欲は過ぎ去りますが、神の御旨を行う者、そして愛は、永遠にながらえるでしょう。愛万歳! 神は愛です!—デービッド・ブラント・バーグの著書より編集

「ロードマップ」は若い大人向けにTFIによって制作されたビデオ・シリーズ
初版は2010年 2018年1月に改訂の上、アンカーにて再版 朗読:サイモン・ピーターソン


1 ヨハネ 4章

2 マタイ 12:15.

3 2 コリント 9:6.

4 The Power of Nice: How to Conquer the Business World with Kindness (Doubleday, 2006).

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