私の完璧な一か月

11月 22, 2017

My Perfect Month
November 22, 2017

デービッド・ミズラニー

最近私は、まるで驚くに値しない、至極わかりきった結論に達しました。「自分は十分良い人間ではない。」

さて、もちろん地上の人生において、「十分良く」なれる人など誰もいないことは承知しています。正確には、「自分は今よりずっと良くなり得る」と言った方がいいでしょう。正直なところ、規則と愛の両方が程良い配分で与えられる家庭において、主の愛と訓戒の内に育てられたことを見ても、私は人が本来なり得るほど悪い人間ではありません。それでも、言い逃れしようのない事実とは、もっと良くなることもできたということです。

ですから、この事実に気づいた時、自分はもっと良くやるべきであり、また良くやることができるし、実際に良くやろうと決意しました。

こうして私の(新年ならぬ)年半ばの変革が始まったのです。私は一ヶ月間、人間にとって可能な限り完璧になろうと心に決めました。怒りを抑え、親切に振る舞い、皆の励ましとなろう。率先してことを行い、不必要な反論を控え、自分の部屋や仕事場をきれいに保とう、といったことです。

始めはとても上手くいっていました。毎晩皿洗いを手伝い、誰が正しいかに関わらず、唇を噛みしめて、怒りのこもった言葉や悪い言葉をぐっとこらえました。毎日スケジュール上のすべての予定を、時間通りにこなしました。御言葉を読むことに、以前よりも長い時間を費やしました。身の回りの掃除やメンテナンスをしました。

これがほぼまる2週間続き、その後、例によって、チャレンジの新鮮さが薄れてきました。それまではちゃんとできていたのです。確かに大変でしたが、ものすごく大変というわけでもありませんでした。「必要なのはちょっとした秩序だけだ。そして私は、秩序ある人間だ。」 当然ながら、そんな風に考えていたせいで、私はかえって無秩序になり、すっかり油断して、目標について気楽に構えるようになってしまいました。

このようにして、私は少々脱線し始めました。一度怒りのこもった発言をし、それを二度繰り返しました。何着かの服が、定位置である棚や引き出し以外の場所に置かれるようになりました。ある朝寝坊し、翌日の朝も寝坊しました。その次の日の夜は、あまり皿洗いを手伝いませんでした。

その後私は、自分のプライドと思い上がりによって触発されたその変革から、すっかり脱線してしまいました。もうその月は駄目になってしまったのですから、今さらもう一度寝坊したからといって、大差はないでしょう?

お察しの通り、私の「完璧な」一ヶ月は、完璧には程遠いものでした。

けれども、その月の終わりに、自分が他の人に与えた影響を振り返ってみて、別のことに気づきました。人々は最初の2週間、快活で、親切で、感謝を示してくれ、あまりがみがみ言いませんでした。それが次の週になると、これらの進歩がどれも目に見えて後退しているのを感じ、そして最後の週には、人々は短気に振る舞い、親切でもなければ、感謝も示してくれず、がみがみ言うようになりました。

「周りの人たちがずっと親切なままでいてくれたら、自分もそうできていたかもしれないのに」と、私は物惜しげにため息をつきました。

しかし、主に優しく肩をたたかれて、自分の下落が、何かへの反動で起こった結果ではないことに気づきました。むしろ、下落し始めるにつれて、自分の人を見る目が変わったのです。他の人に対して忍耐がなくなるにつれ、私はすぐに心の中で、相手に「短気」や「批判的」といったレッテルを貼るようになりました。愛が愛を生み、鉄が鉄を研ぐのと同じように、私の考え方や振る舞いが、人々の振る舞いばかりか、彼らにとって私がどれだけ一緒に働き易い相手であるかにも、影響を及ぼしていたのです。

主はまた、私が思ってもみなかった、受け入れ難いある事実を示して下さいました。おそらくは自分でも気づかないうちに、このチャレンジの根底で、私のプライドと独善がそれに拍車をかけていたことを。自分の思考や意志力だけで、己の人間としての質を変えることができるという考え方一つ見ても、肉の腕に頼っていたことがわかります。私は自分の完璧な一か月に、不完全な思考様式で臨んだのであり、そんなものが土台うまくいくわけがありません。

しかし、おそらく主が私に指摘されたもっとも衝撃的な事実は、私が失敗した理由やタイミングや経緯とは、何ら関係のないものでした。実際のところ、最初はこの概念が本当に主からのものかどうかも、定かではありませんでした。主は私が、誤った方法で成功を測っていると言われたのです。

私の完璧な一か月は失敗に終わった、ということでしたよね? さて、そうとも言えるし、そうでないとも言えます。完璧な一か月という点では、私のせいで台無しになり、それには議論の余地がありませんが、その失敗の中で私は、今後長いこと忘れないであろう大切なレッスンを学んだのであり、そのおかげで後に成長を遂げ、敢えて言うなら、もっと良くやることができるようになったのです。

もっと良くやるために、完璧になる必要はありません。そのためにより良い人間になる必要すらありません。ただ細く小さな声に耳を傾け、主の指摘に敏感でいて、喜んで主から聞き、学ぼうという気持ちがあればいいのです。

私は決して完璧にはなれませんが、常に向上することはできます。

私の完璧な一か月が、それを教えてくれました。

Copyright © 2024 The Family International