あなたの床を取り上げなさい

10月 31, 2017

Taking up Your Mat
October 31, 2017

引用文集

オーディオ所要時間: 11:21
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ある日、イエスはエルサレム神殿の北側の池近くで、ある男性に出会われました。‥‥その池はベテスダと呼ばれていますが、中央公園や市立病院、さらにはジョーズ・バー&グリルと呼んでもいいでしょう。大都市の高架下にある、ホームレスが集まるような場所とも言えるし、危険な人物がいる場所とも言えます。

湧水により池に泡が立つことがありました。人はそれを、天使が翼を浸したため水面が動いたのであり、その直後に水に触れる者はいやされると信じていました。実際いやされた人はいるのでしょうか? 私にはわかりません。けれども、大勢の病人が試しに来たことでしょう。

体が麻痺した人と救い主との、短いながらも意義深い会話に注目してもらいたいと思います。イエスはこの男性をいやす前に、こう質問されました。「なおりたいのか?」

「主よ、水が動く時に、私を池の中に入れてくれる人がいません。私が入りかけると、他の人が先に降りて行くのです。」

この男性は不満を言っているのでしょうか? 自分を哀れんでいるのでしょうか? それとも単に事実を述べているのでしょうか? 誰にもわかりません。けれども、そのことを分析するより、それに対してかけられた言葉に注目しましょう。

「起きて、あなたの床(とこ)を取りあげ、そして歩きなさい。」

すると、この人はすぐにいやされ、床をとりあげて歩いて行ったのです。[1]

私たちもそうあれたらと思います。ただイエスの言葉をそのまま信じることができれば‥‥と。天国でのように、イエスが何か言われればそれは実現するのだと学ぶことができればと思うのです。私たちの手足を縛るこの「麻痺状態」は何でしょうか? このいやされるべき頑固な強情さは何なのでしょうか?

イエスが「起き上がりなさい」と言われたら、起き上がりましょう。

イエスが「あなたがたはゆるされた」と言われたら、罪悪感を捨てましょう。

イエスが、私たちは値打ちのある存在だと言われたら、それを信じましょう。

私たちは永遠に生きると言われたら、恐れを封印しましょう。

イエスが私たちのために備えてくださると言われたら、心配するのを止めましょう。

「立ちなさい」と言われるなら、そうしましょう。

私が好きな話に、ナポレオンの暴走した馬を追いかけて捕まえた二等兵の話があります。馬をナポレオン皇帝に返しにいくと、「ありがとう、大尉」と感謝されました。

その一言で、二等兵は昇進したのです。彼は皇帝の言葉を信じました。そして需品課へ行き、新しい制服を選んで、それを着ました。それから士官宿舎でベッドを選び、士官食堂に行って、食事をしたのでした。

皇帝がそう言ったので、彼は信じたわけです。私たちもそうであればいいのに。これはあなたのストーリーでしょうか? そうなり得ます。状況は同じです。見知らぬ優しい人があなたの惨めな世界に入ってきて、手を差し伸べてくれたのです。その手を取るかどうかはあなた次第です。—マックス・ルケード [2]

起きて、歩きなさい

イエスは彼に言われた、「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい。」[3]

イエスの言葉の重みを理解するには、当時の時代背景を考えなくてはなりません。まだ十分ではないと感じる人もいるでしょうが、現代では身体障害者が働き、生産的な人生を送る何らかの機会があります。キリストが地上におられた頃、身体障害者は社会的に見捨てられていました。彼らは物乞いによる施しで生きていたのです。

上記の場合、男性は長い間、足が不自由でした。唯一の所有物は、着ていた服と横たわっていた床(敷物)だけだったでしょう。この床は、彼の人生の唯一の希望を象徴しているかのようでした。彼は生きている間ずっと哀れに思われてきました。(イエス以外に)病をいやす方法はなく、たとえあったとしても治療費を出すことはできなかったことでしょう。

イエスはこの男性に同情されました。そして、あの言葉を発することでいやされたのです。「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」という言葉で。それはお金では買えない、素晴らしい贈り物でした。

男性は、その床にすっかり頼っていました。彼にとってとても大切なものなのです。その上で眠り、休み、まわりを通り過ぎる世界を見渡していたのですから。床なしで一日を過ごす時が来るなんて想像していませんでした。イエスは、そんな床を取り上げて歩くよう言われたのです。そう語り終えた時、その男性はもう床を必要としていませんでした。‥‥イエスはきっと、もう床はいらなくなるので取り上げるよう言われたのだと思います。物乞いしたり、心配したり、苦しんだりするための場所はもういりません。床に頼らなくてもいいのです。いやし主を見つけたからです!

そして現在でも同じです。信仰以上にしがみつき頼っているものがあるなら、イエスはそれを「取り上げて歩きなさい!」と言われるでしょう。気を付けていないなら、私たちはキリストよりも床を頼みの綱としてしまいます。‥‥イエスはあなたを助けたいと思っておられます。そして、その最善の方法は、主をもっと信頼するようにあなたを導くことです。「床を取り上げて歩きなさい!」 という主の言葉に耳を傾けましょう!—ロン・エドモンドソン [4]

神のまことは大いなり

真の信仰は受身的なものではありません。信じていることを行動で示します。実践的なものなのです。私たちだけにできることを神がしてくださるよう期待することはしません。信じている人は信仰を行動に移します。

神に何かを求めると、その人は神を信じ、その言葉をそのまま受け入れます。神が本気でそう語られたと心から信じます。たとえ人間の感覚では、その人の信仰の求めるものがことごとく否定されていようが、です。そういったことにもかかわらず、神の言葉は真実であり、神はその言葉を裏切れないと知っています。神のまことは大いなるものなのです!

多くの時、これは「信仰の立場を取る」と言われています。その素晴らしい見本に、祭司のところに行って体を見せなさいとイエスから告げられた、重い皮膚病をわずらう人たちの話があります。聖書には、「行く途中で彼らは清められた」[5] と書かれています。彼らは信仰を行動に移しました。そして、神はそれに応えられたのです。私たちが信仰を行動に移そうとするなら、神はその信仰の一歩を祝福し、応えてくださいます。あの手がなえた男性のように‥‥。イエスは「手を伸ばしなさい」と言われました。彼にとって手を伸ばすことは不可能だったのですが、キリストがそう命じられた時、彼はその努力をしました。そして、完全にいやされたのでした。[6]

信仰の中心は意志の中にあります。そして神は私たちが信仰を行動に移すことを期待されています。誰かが「信仰が市場へ行く時には、必ず買い物カゴを持っていく」と言いました。信仰は多くの人が思っているようなただの高揚させる思い、素晴らしい感覚ではありません。それは神の言葉をそのまま受け入れることなのです。

信じるとは、相手の誠実さに心から頼ることです。つまり、信仰とは神の信頼性とまこと(誠意)とに、心から頼ることなのです。神のまことはいかに大いなることかな! あなたは神が告げられることすべてに「アーメン」と言えますか? 神はたった今、落胆している人に「わたしはあなたの神である。あなたを強くし、あなたを助ける」[7] と言われています。お金に困っている人には、「わたしの栄光の富の中からあなたの一切の必要を満たす」[8] と言われています。あなたはその言葉に「アーメン」と言えますか? 神の言葉をそのまま信じて、心の底から「アーメン」と言えますか? 「見よ、主の手が短くて、救い得ないのではない。その耳が鈍くて聞き得ないのでもない。」[9] これも神の言葉です。たった今、神を見上げて、こう言いましょう。「あなたのまことは大いなり。」—バージニア・ブラント・バーグ

2017年10月アンカーに掲載 朗読:ルーベン・ルチェフスキー
音楽:ジョン・リッスン

音楽:ジョン・リッスン

1 ヨハネ 5:1–9を参照.

2 Max Lucado, Cast of Characters: Common People in the Hands of an Uncommon God (Thomas Nelson, 2010).

3 ヨハネ 5:8.

5 ルカ 17:12–14.

6 マルコ 3:1–5.

7 イザヤ 41:10.

8 ピリピ 4:19.

9 イザヤ 59:1.

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