神の愛の律法

10月 24, 2017

God’s Law of Love
October 24, 2017

引用文集

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そして彼らの中のひとりの律法学者が、イエスをためそうとして質問した、「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか。」 イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。』 これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ。』 これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている。」—マタイ 22:35–40

イエスはこの新約聖書の重要な一文において、「愛の律法」とは全般的に何を指すのかを定義づけられました。また別の時には、名高い「黄金律」の中で、それを次のように表現されました。「だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。」[1] 使徒パウロも、この原理について、以下の記述の中で同様に述べています。「律法の全体は、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』というこの一句に尽きるからである。」[2] これらの聖句は、神の律法の本質について述べており、私たちはそれを、あらゆる行動や他の人との関係における指針とすべきです。

他の何よりも第一に神を愛し、他の人を愛するなら、十戒を含む聖書のすべての戒めを究極的に成就し、全うすることになります。私たちクリスチャンが、心と精神と思いを尽くして主を愛し、自分を愛するように隣り人を愛するなら、おのずと他のすべての律法の精神を全うことになるのです。例えば、主をおいて他のものを神々としたり、みだりに主の名を唱えたりはしないことでしょう。隣人を自分のように愛するなら、相手に対して殺しや盗みをすることはなく、嘘をつくことも、相手が持っているものを妬んだりすることもありません。

私たちクリスチャンがこれらのいましめに従うのは、神の裁きを恐れるからではなく、むしろ神や他の人への愛に突き動かされて、隣人に思いやりや優しさを示さずにはおれない、という理由からであるべきです。私たちが十戒で禁じられていることを控えるのは、それらが神や他の人への愛にそぐわない行為だからです。

神の愛の律法は多くの意味で、モーセの律法よりも厳しい行動規範を要求します。モーセの律法の中心をなす教義である十戒には、人が公正さと正義をもって行動すべきことが記されていましたが、イエスの愛の律法下では、犠牲的な愛や憐みといった、それよりもはるかに多くのことが求められるのです。

この神の愛は、目標として掲げるには、単なる宗教的な義よりもはるかに高い理想です。事実、イエスの律法の方が、守るのも実行するのもずっと難しいため、人が神の助けなしにそうすることは不可能です。イエスは弟子たちに、「わたしから離れては、あなたがたは何一つできない」[3] と言われましたが、その一方でパウロはこうも言っているのです。「わたしを強くして下さるかた[キリスト]によって、何事でもすることができる。」[4]ファミリー・インターナショナル

黄金律

概して愛の律法とは、私たちクリスチャンの人生全体を司る敬神的な原則です。イエスは名高い「黄金律」の中で、それをごく単純な言葉に要約し、私たちに人間関係の秘訣を教えて下さいました。「だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。」[5] (つまり、自分を愛するように隣人を愛するなら、神の律法を成就することになり、そのような愛こそが「律法であり預言者」なのです。) この愛の原則が、他の人に対する私たちの行動すべてを導くべきです。

「愛は隣り人に害を加えることはない。」[6] それは、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛」しているからです。[7] これが神の愛の律法です! この、まず神を愛し、自分を愛するように隣人を愛せよという、イエスが宣言された愛の律法は、聖書の他のすべての律法を成就するものです。要するに愛の律法という概念は、他の何よりも神を愛し、隣人を愛することによって自らを制御せよという主の教示に基づいた、この新しいいましめに尽きるのです。「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。」[8]

愛の律法は、人生を導いてくれる原則です。私たちのすべての行動が、それに基づいていなければなりません。何をするにも、愛の内に歩もうと努めるべきです。愛を日常生活のすべての行動の動機とし、目に見える動作や行為で愛を示すべきです。さもなければ、どうして神の愛が私たちの内にあり得ましょうか?[9]

犠牲的な愛は、愛の律法の基盤たるものです。イエスの愛の律法通りに生きようと思うなら、その本質を理解することが不可欠です。つまり、愛の律法の核心や精神を理解する必要があるのです。愛の律法の本質とは、自分がしてほしいと思うことを他の人にもして、必要を抱えた人を助け、たとえ犠牲を払うことになっても、他の人の必要を自分の必要よりも優先することができるほど大きな愛を持つことです。愛とはそういうものなのです。

困っている人に、行いと真実とをもって愛を示すこと、これこそが愛の律法の本質です。だからこそ愛の律法は、私たちの信仰の礎石であり、あらゆる面において人生の基盤なのです。それは友情や理解や支援や敬意や、話を聞いてもらい、必要とされ、大切な存在であると見なされることといった、人々の抱えている必要に気づくことから始まります。

イエスの愛のおきてに生きるのは、容易なことではありません。心と精神と思いを尽くして主を愛し、自分を愛するように他の人を愛し、兄弟のために命を捨てること、これらすべてには、犠牲の人生を生きることが要求されます。つまり、第一にイエスを、次に他の人々を優先し、自分を最後に置くのであり、それは「生まれながらの人」の性質、人の生来の性質に反しています。兄弟のために命を投げ出し、日々自分に対して死に、他の人のために生きるよう私たちを駆り立てる、この種の愛を持つには、神の超自然的な愛が必要です。

神の愛の律法を生きるとは、絶えず他の人のことを考え、彼らに仕えることであり、それは難しい注文です! 怠慢で利己的で自己中心的に生きる方が、ずっと簡単ですから。私たちの大半は、生まれつきそんな風で、大抵真っ先に気に掛けるのは自分のことです。自分の欲しいものや、自分を幸せにしてくれるもの、といったような。けれども、主に助けを求めて懸命に努力するなら、新たな習慣や反応を身につけることができ、それによって時と共に、もっと愛情深く思いやり深く、犠牲的な人間になっていくことでしょう。

主はあなたが他の人のために身を捧げ、自分よりも他の人の必要を優先できるよう、そのための強さや恵みや力を与えて下さるでしょう。あなたが主に求め、自分を主の御霊で満たして頂き、主に人生を捧げるならば。あなたにはできませんが、イエスにはできます! そしてあなたが委ねるなら、きっと主はそうして下さるでしょう。—マリア・フォンテーン

神の犠牲的な愛

「愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。」 「神を愛する者は、兄弟をも愛すべきである。この戒めを、わたしたちは神から授かっている。」 「神を愛してその戒めを行えば、それによってわたしたちは、神の子たちを愛していることを知るのである。」 「わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。」[10]

「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。」 「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。」 「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」 「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう。」[11]

真の愛があるなら、誰かが困っている状況を目の当たりにして、何もせずにいることなどできません。エリコへと続く道に倒れている哀れな人を素通りすることなどできず、サマリヤ人のように行動を起こさねばならないのです。[12] 同情は行動に移されなければなりません! それが、ただ哀れむのと真に思いやることとの違いです。哀れむのは、ただ気の毒に思うだけですが、真に思いやるなら、それについて何かをするのです。

 

私たちは自分の信仰を、働きによって示さなければなりません。そして愛は、行動によって目に見える形で示されない限り、めったに証明することができないのです。誰かを愛していると言いながら、食べ物や衣服や住まいといった、彼らが必要としている何らかの物質的な助けを与えようとしないなら、それは愛とは言えません! 確かに、真の愛に対する必要というのは霊的な必要ですが、それはまた、働き(行動)によって目に見える形で表現されなければいけません。「愛によって働く信仰」です。[13]

なぜなら、「世の富を持っていながら、兄弟が困っているのを見て、あわれみの心を閉じる者には、どうして神の愛が、彼のうちにあろうか。子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか。」[14]

けれども、愛の最も顕著な表明は、ただ物品を分け与えることではなく、他の人のために自身を捧げ、身をもって彼らに奉仕することです。それこそ私たちの信じていることであり、その結果私たちの活動が始まり、物質的な持ち物を分かち合うようになりました。イエスご自身、弟子たちと分け合えるような物質的な持ち物は、一つも持っておられませんでした。あったのは愛と命だけで、それを彼らや私たちに与えられたのです。私たちもまた、永遠に渡って愛と命を持つことができるように!

あなたは傷つくまで与えることを厭わないでしょうか? それがたとえ自分の損失になったとしても? イエスはそうされました。ご自分の命を与えられたのです。神はそうされました。その御子を与えられたのです。ダビデ王は傷つくまで与えました。彼はこう言ったのです。「わたしは費用をかけずに燔祭をわたしの神、主にささげることはしません。」[15]デービッド・ブラント・バーグ

2017年10月にアンカーに掲載 朗読:ジェリー・パラディーノ
音楽:マイケル・ドーリー


1 マタイ 7:12.

2 ガラテヤ 5:14.

3 ヨハネ 15:5.

4 ピリピ 4:13.

5 マタイ 7:12.

6 ローマ 13:10.

7マタイ 22:39.

8 ヨハネ 13:34.

9 1 ヨハネ 3:17–18を参照.

10 1 ヨハネ 4:11, 21; 1 ヨハネ 5:2; ヨハネ 15:12.

11 ヨハネ 3:16; 1 ヨハネ3:16; ヨハネ 15:13; ヨハネ 13:34–35.

12 ルカ 10:25–37を参照.

13 ガラテヤ 5:6.

14 1 ヨハネ 3:17–18.

15 サムエル下 24:24.

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