引用文集
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すべてこれらのことが起ったのは、主が預言者によって言われたことの成就するためである。すなわち、「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう。」 これは、「神われらと共にいます」という意味である。—マタイ 1:22–23
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旧約聖書には、キリストに関する預言が330以上あります。その全てが実現する確率は極めて低く、ほぼ不可能と言えます。ところが、一つ一つ、予告された通りに起こったのです。
マタイは、イエスの誕生をめぐる4つの際立った預言について語っています。イエスの母親マリヤは、ヨセフと婚約しましたが、一緒になる前に聖霊がマリヤに臨み、身ごもりました。ヨセフは夢の中で、マリヤは聖霊によって身ごもったのだから、マリヤを妻として迎えるようにというお告げを受けました。マタイ1:23にはこうあります。「おとめ[=処女]がみごもって男の子を産むであろう。」 これは、その700年以上前に、イザヤ7:14で預言されていたことです。
キリストは、マリヤとヨセフの暮らしていたナザレで生まれるはずでしたが、皇帝アウグストがローマ帝国全体で人口調査をすることにしたので、どの家族も父親の故郷に行って登録をしなければなりませんでした。ヨセフはベツレヘム出身だったので、2人は大変な旅をしてそこへ行くことになり、着いたその夜にイエスが生まれたのでした。マタイ2:6にはこうあります。「ユダの地、ベツレヘムよ、おまえはユダの君たちの中で、決して最も小さいものではない。おまえの中からひとりの君が出て、わが民イスラエルの牧者となるであろう。」 これは、キリストの生まれる700年前に、ミカ5:2で予告されていたことです。
ヘロデは、ユダヤ人の新しい王が生まれることを恐れ、ベツレヘムやその周辺の2歳以下の男の子は皆殺しにするようにと命じました。ヨセフは夢で警告を受け、マリヤと赤ん坊を連れてエジプトに逃げ、ヘロデが死ぬまでそこにいるようにと言われました。マタイ2:15には、こうあります。「それは、主が預言者によって『エジプトからわが子を呼び出した』と言われたことが、成就するためである。」 この預言とは、800年前に書かれていたホセア11:1のことです。
ヘロデが死ぬと、マリヤとヨセフとイエスはナザレに戻り、イエスはそこで大きくなりました。マタイ2:23にはこうあります。「彼はナザレ人と呼ばれるであろう。」 これは、700年以上も前に書かれた、イザヤ11:1にまでさかのぼります。そこにはこうあります。「エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び‥‥。」 若枝と訳されたヘブル語の言葉は[ナザレと発音の似た]「ネツェル」であり、この節は「ナザレ人エッサイの株から実が結ばれる」と読まれ、理解されたのです。イザヤの時代にナザレという町が存在しなかったことを考えると、これは驚くべきことです。
イエスの生誕は何世紀にも渡って待ち望まれていました。イエスは、「自分の民を罪から救う」ために、この世界に来られたのです。[1]—チャールズ・プライス
メシア預言
イエスがベツレヘムで生まれる何百年あるいは何千年も前に、旧約聖書の預言者たちはイエスが来られることを予告していました。イエスの誕生、勝利のエルサレム入城、ユダの裏切り、裁判、十字架刑、埋葬、そして勝利のよみがえりを告げるメシア預言(救世主に関する預言)があります。それは「メシアが来る」といった大まかなものではなく、具体的な場所や時間や出来事に関する預言でした。そして、それらの預言はたった一人の方、イエス・キリストによって成就されたのです。
キリスト生誕の約750年前、旧約聖書の預言者イザヤはこう預言しました。「それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる。」[2] ご存知の通り、マリヤは、ナザレの大工ヨセフと婚約していた処女でしたが、天使が現れてマリヤにこう告げました。「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生れ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう。」[3] インマヌエルというのは、 「神われらと共にいます」という意味で、イエスを心に受け入れた私たちにとっては、まさにその名の通り、神が共にいて下さるのです。
イザヤにはもう一つ別の預言もあります。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。」[4] つまり、古代のユダヤ人は神に息子がいると信じていたのです。その方が肉から生まれ、「力ある神」と呼ばれることが預言されていました。
ミカは、紀元前8世紀にこう預言しました。「しかしベツレヘム・エフラタよ、あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、イスラエルを治める者があなたのうちからわたしのために出る。その出るのは昔から、いにしえの日からである。」[5] ユダヤ民族はイエスを統治者として受け入れませんでしたが、預言ではイエスが「治める者」になると言っています。それは今のところ、イエスが救い主であることを自ら受け入れる人のために霊のうちで起こることです。そして、イエスの再臨の時には、それが文字通り現実となります。
イエスの存在は、「昔から、 いにしえの日から」のものです。イエスは言われました。「アブラハム[おおよそ紀元前2000年前]が生まれる前から、『わたしはある。』」[6] イエスはここで、ご自身のことを、燃える芝の中でモーセの前に現れて「わたしはある。わたしはあるという者だ」[7] と言われた神ご自身であり、永遠に存在する神の御子であると言っておられたわけです。
イザヤ書にはこんな預言があります。「彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、誰が思ったであろうか。彼はわが民のとがのために打たれて、生ける者の地から断たれたのだと。」[8] イエスの裁判の過程でピラトはユダヤ人たちに尋ねました。「『ついては、あなたがたは、このユダヤ人の王を許して[釈放して]もらいたいのか。』 すると彼らは、また叫んで『その人ではなく、バラバを』と言った。」[9] イエスを尋問したピラトは、3回、ユダヤ人たちの所に出て行き、「わたしには、この人になんの罪も見いだせない」と宣言しました。だから、ピラトの裁きによれば、イエスは告訴された件について無罪だったのです。[10]
けれども、民衆はイエスを牢屋に入れたままにしておくことにも、無罪という判決にも満足せず、ピラトに政治的圧力をかけたので、しまいにピラトは残虐な民衆に屈せざるを得ませんでした。こうしてイエスは「暴虐なさばきによって取り去られ」、ピラトは「十字架につけさせるために、イエスを彼らに引き渡した」[11] のでした。
紀元前1000年頃、 ダビデ王はこう預言しました。「まことに、犬はわたしをめぐり、悪を行う者の群れがわたしを囲んで、わたしの手と足を刺し貫いた。わたしは自分の骨をことごとく数えることができる。彼らは目をとめて、わたしを見る。彼らは互にわたしの衣服を分け、わたしの着物をくじ引にする。」[12]
この預言は新約聖書で成就しているのがわかります。「さて、兵卒たちはイエスを十字架につけて[手と足を刺し貫いて]から、その上着を手にとって四つに分け、おのおの、その一つを取った。また下着を手に取ってみたが、それには縫い目がなく、上の方から全部一つに織ったものであった。そこで彼らは互に言った、『それを裂かないで、 誰のものになるか、 くじを引こう。』」[13] ダビデの時代のユダヤ人は十字架刑を行なっていなかった(石打ちを行っていました)にもかかわらず、ダビデは、メシアがこのような死に方をすることを予告しました。イエスの死の1000年前、その時代のユダヤ人は十字架刑など知らなかったのに、この預言がなされたのです。
ベツレヘムで処女のもとに生まれ、神と呼ばれ、無実の宣告を受けながら不当にも十字架刑に定められ、 その衣服が兵士たちの間で分けられ、悪人とその死を共にし、金持ちの墓に埋められ、死からよみがえるといった預言のすべてを成就した人が、他にいるでしょうか。もちろん、イエス・キリストを他にしては誰もいません。
イエスがこの地上に来て十字架で死なれたのは、あなたや私を愛しておられたからです。それほども深く私たちを愛しておられたので、私たちに代わって罰を受け、死に、しばらくの間、父なる神と離れ離れになられました。私たちに神の愛と永遠の命をもたらすためです。別の預言ではこう言われています。「われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。‥‥その口には偽りがなかった‥‥しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、[私たちの]とがの供え物となすとき‥‥。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。」[14]
イエスは私たちのために死なれたのだという、それほども単純明快なことです。そして、神がこのようにたくさんの預言を与えて、それらを書き記させ、保存されるようにされたのは、その預言によって、私たちの信仰が強められ、「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。 それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」[15] ということを信じるようになるためなのです。—デービッド・ブラント・バーグ
2015年12月アンカーに掲載 朗読:ジョン・マーク