快適ゾーンを出る

11月 3, 2015

Out of Your Safety Zone
November 3, 2015

引用文集

オーディオ所要時間: 9:38
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私たちの誰にでも快適ゾーンがあります。自分が心地良く感じる環境、付き合っていて楽な人、意識的に努力しなくてもいい相手です。そのゾーンの境界線を決めるのは、多くの場合、恐れであったり、どんな振る舞いが他の人に受け入れてもらえると考えるか、自分が快適に感じる努力レベルを超えるものは何なのか、といったものです。

快適ゾーンにいれば、心地良くてナイスです。問題は、それによって決断を左右されると、成長や発達の余地がほとんどなくなることです。人生を最大限に経験する妨げとなるし、継続的に思いっきりの力を出さないなら、心も思いも霊も自己満足になる危険があります。

主が私たちの地平線を広げようとしている時に快適ゾーンにとどまる危険というのは、可能性を追求することなく、徐々に眠りについて平凡な生存に陥ってしまうことです。自分にもっと何が達成できるのかが見られなくなり、エキサイティングな信仰の跳躍をしなくなってしまうのです。

その境界線を突き破るのは大変だし、リスクも伴います。何に出くわすか分かりませんから。でも、新しい人や、新しいアイディア、新しい機会に遭遇する満足感、充実感、喜びは全て、私たちをより深みのある、目的に導かれた人間にしてくれます。自分の考える限界を超えていこうという気持ちがない限り、フルの可能性を見いだすことはないでしょう。

ピーターが、リハビリセンターを訪れた時の話をしてくれました。ある男性が再び歩く練習をしており、その時までは足を引きずりながら狭い歩幅で進むだけだったけれど、療法士は、そろそろもっとやれるのではないかと考えたそうです。男性は、そんなのは無理だし、転びたくないと嫌がりましたが、両脇に療法士がついて、もっと速く歩くよう、ほぼ強制すると、男性は自分ができることに気づいたのです。自分だけでは、そのような進歩のステップを踏むことはなかったことでしょう。

主は本質的に、時に私たちの快適ゾーンを壊して、私たちの人生に新しいチャレンジをもたらし、それによって、私たちが自分で定めた限界を直視し、そこから先に進んでいけるようにしてくださいます。そのステップを踏むと、大抵は、思ったほど怖くないとわかり、以前は不可能だと思っていたようなチャンスや可能性に満ちた新しい世界が開かれるのです。—マリア・フォンテーン

*

「主よ、自分の殻を抜け出て、新しいことを試すのがどうしてそんなに難しいのでしょう? 考えただけで、どうしてこんなに不安で、怖くなるのでしょう? 今日、私は自分の霊に必要な勇気を求めます。あなたは神であり、あなたの永遠の愛はあらゆる行いにおいて私と共にあります。」

昨日[私は]快適ゾーンを抜け出るのがどれほど難しいかを考えていました。新しいことを試み、新しい関係や仕事に移り、新しい日課を試すことのストレスや不安や恐れは、精神をかなり疲れさせます。

人生には小さなチェンジ(着るのをためらうような新しい服)もあれば、大きなチェンジ(新しい仕事、引越し、中毒を断つ、愛する人を失う)もあります。程度の差こそあれ、どれもストレスがかかります。

最初の一歩が一番難しいということをよく耳にしますが、経験から言って、また、少し(あるいはかなり)強迫性障害を抱えた人間として言えば、まさしくその通りだと思います。私は人生で何かのチェンジを受け入れられるまでに、何日、何週間、何ヶ月、さらには何年もかかったりするのです。

それについての秘訣は、神に信仰を持ち、どんな新しいことにおいても最初のステップを神に導いていただき、時の始まりの前から神が私たちのために造られていた道を行くことです。私は、新しい試みをする前に、神に感謝するのが好きです。新しい方向性が神の御心にかなったことなら、必ず私のための神の計画に沿って進んでいるとわかるからです。その道は必ずしも楽には見えませんが、必ず私の人生に、また多くの場合は周囲の人たちの人生にも、付加価値をもたらしてくれます。

深く息を吸い、感謝の祈りを捧げ、信仰によって赤ちゃんステップを踏みましょう。あなたは宇宙の創造主によって愛され、気づかわれ、守られているのです。

民数記10:9にはこうあります。「また、あなたがたの国で、あなたがたをしえたげるあだ[これは時に自分の中の恐れ]との戦いに出る[未知のものに直面する]時は、ラッパをもって[つまり、神を賛美する]、警報を吹き鳴らさなければならない。そうするならば、あなたがたは、あなたがたの神、主に覚えられて、あなたがたの敵から救われるであろう。」—イースター・エレン [1]

信仰によって踏み出す

「イエスは夜明けの四時ごろ、海の上を歩いて彼らの方へ行かれた。弟子たちは、イエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと言っておじ惑い、恐怖のあまり叫び声をあげた。しかし、イエスはすぐに彼らに声をかけて、『しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない』と言われた。

「するとペテロが答えて言った、『主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください。』 イエスは、『おいでなさい』と言われたので、ペテロは舟からおり、水の上を歩いてイエスのところへ行った。しかし、風を見て恐ろしくなり、そしておぼれかけたので、彼は叫んで、『主よ、お助けください』と言った。イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかまえて言われた、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。』」—マタイ 14:25-31

ペテロは、周りを見て風や波に気づくまでは、実際に水の上を歩いていました。その時になって沈み始めたのです。同じように、私たちが困難を味わっている時にも、周りの状況に目を向けると、怖くなって沈んでしまいます。でも、イエスに目を留めるなら、そして、イエスは私たちを抱えて運んでくださることができるし、そうしたがっておられるということに目を留めるなら、いずれ切り抜けられることでしょう。ペテロが周りの波や嵐に心をとめ、そのせいで沈んでしまった時、イエスは彼の信仰の欠如をたしなめられましたね。私たちが逆境を克服するのを助けるのは神ですが、神の助けを受け入れる扉を開くのは私たちの信仰です。

でも、ここには私たちのためにもう一つ興味深い学びがあります。弟子の中で、舟から一歩踏み出す勇気があったのはペテロだけだったということです。確かに、イエスから目をそらし、その結果、沈んでしまいましたが、主と共に水の上を歩くという奇跡を経験した弟子は彼一人だったのです。

神のために何か意義あることをするつもりであれば、神が、舟を出て信仰によって踏み出すよう招かれる時、つまり、快適ゾーンを後にする時が必ずきます。それは、リスクを取ることでもあります。踏み出す前に、水が舟の中に入って来るまで待っているなら、やめてしまった方がいいでしょう。神は無理やり、あなたを舟の外に出そうとはされません。でも、主が召された時に、あなたがそれに応えないのであれば、神があなたのために計画された素晴らしいことを知らないままで終わってしまいます。今日、主があなたに一歩踏み出すよう求めておられると感じるなら、主の導きとタイミングを知らせてくださいと告げ、主の御心をするための勇気を求めなさい。そのあとは、舟から出て、神の栄光へと入る準備をしましょう。

祈り:主よ、試練に会った時に、状況から目を離して、あなたに目を留めるよう助けてください。私を抱え、安全に人生の嵐を通り抜けられるよう導いてください。信仰によって踏み出すようあなたに求められたらいつでも、あなたの導きと識別力と勇気を与えてください。大胆でありながら、無謀にはならないよう助け、あなたの計画の先を行ったり、遅れをとったりしないよう助けてください。私を、克服する者、あなたの栄光の道具としてくださり、感謝します。—J・M・ファロ [2]

2015年11月アンカーに掲載 朗読:ガブリエル・ガルシア・バルディビエソ


2 Life on the Go Devotional for Dads (Harrison House, 2006).

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