アイリス・リチャード
人や車の溢れるアフリカの都市の恐るべき渋滞にはまりました。乗用車もトラックもバスも、どこまでも続く車列をのろのろと進み、人の歩く速さと変わりません。そんな数珠つなぎになっている車の間を縫って、歩行者やバイクや自転車が進んで行きます。車の中の私は、この貧しい地区を通りながら、排気ガスでいっぱいの汚染された空気を吸うしかありませんでした。
胃がむかつき、イライラも募る中、前の晩の土砂降りで水たまりがいっぱいの、ぬかるんだ歩道に目が行きました。地面にビニールシートを敷いて中古品や果物や野菜を並べている露天商の間に、せいぜい7歳の小さな男の子がいたのです。よく見ると、動かない脚を引きずりながら、お尻で動き回っていました。
鳴り響く車のクラクションや、ぬかるんだ歩道を行く大勢のざわめきの中で、足の不自由なその小さな男の子は、誰かが気づいて立ち止まってくれることを願って懸命に微笑みながら、施しを求めていました。私の隣の、歩道に一番近い車列に、ヨレヨレのズボンに破れたTシャツ姿の男性が穴のあいた泥まみれの靴で、車の合間を縫って、重いカートを押しているのが見えました。筋肉隆々でも、顔は辛そうです。ジャガイモの入った大きな袋を高く積んでおり、その重みに、顔から汗が滴り落ちていました。
足の不自由な男の子とその男性の目が合い、男性はカートを押す手を休めて、ポケットから硬貨を取り出し、男の子の汚れた手に渡しました。男の子は美しい微笑みを見せ、立ち去る男性に嬉しそうに「神の祝福を」と声をかけました。その男性も貧しく、低賃金の労務者であることは明らかでした。
人々は、かっこいいSUVの窓からこの光景を眺めていたわけですが、イエスの見せた手本に想いを馳せた人もいたことでしょう。イエスは、虐げられた人や、体の不自由な人、目の不自由な人に手を差し伸べられました。この混沌や貧困のさ中における思いやりの行為という小さな親切を通して、ごった返した歩道にイエスの愛が差し込み、イエスの存在が思い出されました。
この光景に打たれ、私ももっと神の愛を伝える道具になろうと思いました。自分も貧しく、みすぼらしい身なりをしているのに、その男の子に神の愛を示すだけの思いやりを持っていた、シンプルながら深い行動をしたあの男性のようになろうと思ったのです。
その夜、私が祈ったのは、神が私に、誰か困った人のための神の手になってほしい時や、哀れな人に寄り添うための神の足になってほしい時に、それを察し、時が良くても悪くても神の霊に促されたら即座に動けるようになれることでした。また、書かれた御言葉や定期的な神との交わりの時を通してイエスと近い関係を持っているなら、それによって意欲が与えられ、思いがけない状況にあっても神の愛を分かち合うべき時にそれに気づけるようになるといったことについて考えていました。
祈ってから間もなく、そうした思いを実践する機会に恵まれました。娘が3人目の子を出産した時のことです。健康な男の子が生まれ、娘が分娩室で休んでいると、カーテンの向こう側で隣のベッドの女性が陣痛に耐えられずとても辛そうにしていました。見ず知らずの人でしたが、私は彼女のところに行って、助けを申し出なければと思ったのです。数々の出産に立会い、コーチングをしてきたので、お産が楽になる呼吸法をするよう助けましょうと言いました。シンプルな呼吸法を紹介すると、その女性は一生懸命言う通りにし、すぐにコツをつかんで、陣痛の合間にリラックスできるようになりました。一度、強い痛みの合間に荒い息をしながらも、「天使が来てくれたみたい」と言ってくれました。
「天使じゃないけれど、神様が示してくださったことに従おうとしてるの。イエスはあなたのことを愛していますよ」と私は言いました。それからは、ずっと見守っていた旦那さんが、私に代わって、彼女の呼吸法の手助けをしました。
人生の道のりにおいて、ちょっとした親切により、思ってもみなかったところに神の愛の光が差し込むという経験は無数にあります。ちょうどこの詩に書かれているように。
出かけるのであれ、留まるのであれ
自分の役割を果たす用意がある
小さな奉仕であれ、大きな奉仕であれ
神の御旨を行う用意がある
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。」—ヨハネ 15:5