引用文集
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あなたがたが‥‥あがない出されたのは、‥‥キリストの尊い血によったのである。—1ペテロ 1:18-19
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「clean slate」(過去を清算した白紙の状態)という表現は、元々は石板(slate)にチョークで、酒場のその日のメニューが書かれており、それをさっと消して次の日のメニューを書けるようになっていたこと、また、昔の子どもたちが小さな石版に、授業で学んだことをチョークで書きとめたり答えを書いたりしていたことからきています。簡単に消して、また使えるわけです。1800年代の半ば以降、この表現は、再出発や古いしがらみなしの新たな始まり、また、以前の罪や負債を帳消しにすることを、比喩的に言うために使われてきました。
イエスを救い主として人生に受け入れると、意図的にしたことでなくとも、また、思いもしなかったことであっても、あなたのしたこと全ての記録で、価値のないもの、清くないものが全て帳消しにされます。[1] 神の赦しはあなたを白紙の状態にし、新たなスタートを与えてくれるのです。‥‥
それがどれほど素晴らしいことか考えてもみてください。自分のしたことで忘れられないこと、さらには、そんなことをした自分をゆるせないと思うようなことさえも、神の子イエスの十字架での犠牲により、永遠に消し去られました。過去は精算されて白紙となり、新たなスタートが与えられたのです。自分ではどうやっても手に入れられなかった贖いが、救いによって制限なく与えられました。‥‥
聖書は、次のような反語的質問つまり答えが明らかで決まりきった質問を投げかけています。「だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。だれが、わたしたちを罪に定めるのか。」[2] 真に贖われた人にとって、彼らを訴える者は誰も残されていません。そのような白紙状態について、パウロはこう説明しています。「考えてもみなさい。全ての罪が赦されて白紙状態となり、古い逮捕状は無効にされて、キリストの十字架に釘づけされている。キリストは、宇宙のあらゆる霊的圧制者のまがい物の権威をはぎとり、彼らを丸腰で連れ回して通りを行進されたのだ。」[3]—アレン・ランドルフ [4]
人生とテトリス
私はテトリスが大好きです。知らない人のために言いますが、テトリスとは、ブロックをはめ込むパズル形式のコンピューターゲームです。好きな理由は、次に出てくるピースが見られるので、前もって考えることができ、ピースが落ちてくるにつれ、それをはめ込んで段を消していけばいいからです。少なくとも、そう作られています。
でも、それよりも好きなのは、自分の間違いを解決する時です。間違った場所にピースを落としてしまったなら、その時には、問題の箇所を消すために、間違いをうまく切り抜ける方法を考えなくてはいけません。ただ、いつもうまくいくとは限りません。最初の低いレベルでは調子が良くても、スピードアップしてピースの落ちる速度が速くなると、うまく対応できなくなります。ピースは間違ったところに落ち、段が上がってきて画面が埋め尽くされてしまいます。
すると、「ゲームオーバー」という文字が画面を点滅し、ゲームへの情熱も挫折の色に染まってしまいます。
人生も時々そういうものです。間違いが続き、突然、状況を正すために何もできなくなったように思われます。最高だと思っていた計画でさえうまくいかない時があって、何を試しても、どう扱っても問題が積み重なり、ゲームオーバーとなったかのように感じるのです。
けれども、テトリスのようなゲームのいいところは、いつでもゲームが再プレイできることです。何度負けても関係ありません。やりたいときにいつでも最初からやり直せます。
イエスも同じことをしてくださいます。私たちが完璧ではないことをご存じだし、私たちの限界や弱さもご存知です。主は私たちを造られた方であり、私たちがいつも「勝てる」わけではないことを理解しておられます。
イエスは「東が西から遠いように」、[5] 私たちの間違いや罪を遠くに引き離すと約束されました。要するに、罪や間違いはきれいさっぱりなくなり、白紙の状態になって、再スタートが切れるということです。これは、私たちの霊的人生だけにあてはまるのではありません。どんなにうまく人生設計をしていたとしても、新たにやり直さなくてはならない時が来ます。
たとえば、何かのゴールに向けて時間を費やしたのに、突然、状況が変わったということもあります。これで行くべきだと思ったことに時間と思考とエネルギーをたくさん費やしたのに、すべてが変わり、もう一度最初から始めなくてはならないということもあります。そのようなことが起こると、がっかりします。頭の中には、点滅する「ゲームオーバー」という大きな字しか見えないかもしれません。
けれどもゲームが終わった後でも、もう一度始めることができるのです。
「白紙状態」とは素晴らしいものです。過去はすべて消え去ったということです。テトリスをプレイし直す時、何度も負けたからといって、再プレイが拒否されることはありません。無条件で新たにゲームを始めることができます。イエスがあなたに白紙状態を与えられる時、それは本当に白紙です。これまでの間違いや失敗の記録を見たりされません。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」[6]
「命ある限り希望がある」という言葉を聞いたことがあるでしょう。私が話しているのは、まさにそれです。生きて「ゲームをしている」限り、立ちあがってトライしている限り、希望があります。常に新たなスタートを切れ、遅かれ早かれ、いずれは勝てるのです。
あなたは、計画が駄目になって、どうやり直せばいいのかわかりませんか? 何度か試したものの、うまくいかなかったので、がっかりし、もう一度やる気が起こらないのですか? いつでも新しいゲームを始めることができるのだと覚えていましょう。イエスはあなたの人生のために、計画とゴールを用意しておられます。そして、主はあなたの間違いさえも使って、そのゴールに近づけてくださるでしょう。
ソロモン王は、「正しい者は七たび倒れても、また起きあがる」[7] と語っています。倒れてしまうのは仕方ありません。大切なのは、立ちあがって、もう一度始めることです。—マリー・ストーリー
建設中
人間は誰しも、受胎から死に至るまで「建設中」です。どの人生も、間違いや学び、待つこと、成長、忍耐を持ち、粘り強くあることから成っています。死ぬ時に建設が終わり、そのプロセスは完了となります。
あなたはわが内臓をつくり、
わが母の胎内でわたしを組み立てられました。
わたしが隠れた所で造られ、
地の深い所でつづり合されたとき、
わたしの骨はあなたに隠れることがなかった。‥‥
わたしのためにつくられたわがよわいの日‥‥。
—詩篇 139:13, 15–16
死はこう語ります。「これが、最終の達成である。」 さらに経験を積むことはできないものの、キリストを信じる者は、「良い忠実な僕よ、よくやった」[8] という救い主の言葉を聞けるという希望があります。
使徒パウロは、クリスチャンは「彼に根ざし、彼にあって建てられ、‥‥信仰が確立され」る[9] と語りました。それも、この人生で継続的になされる「建設」の一部なのです。しかし、聖書は、「わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてある」[10] と保証しています。
人生は、危険な道を旅するようなもの。乗り物をいきなり揺らす道のくぼみ、本道から外れさせる周り道、先の危険を知らせる警告標識があるのです。魂と霊の行き先は神にとって最も重要なので、神は私たちに日々導きを与えてくださいます。神の指示に細かなところまで注意を払う人もいれば、それを無視して、信号が点滅していてもスピードを出して走り抜ける人もいます。でも誰もがいずれは死の扉という最終地に到着します。
困難を味わうことなく人生を終える人はいません。若い時に体を壊す人もいれば、裕福な家庭に生まれた人が全てを失うこともあります。愛を求めても繰り返し拒絶される人もいます。確固たる基盤がなければ、人生の荷は負いがたきものとなります。
神は私たち一人一人に目的を持っておられ、私たちが神の上に、神が用意された基盤の上に、築くことを願っておられます。聖書は、「動くことのないように」[11] くぎをもってそれをしっかり留める細工人について語っています。キリストは、その手に釘を刺されて十字架に張り付けられ、私たちの確固たる基盤となられました。—ビリー・グラハム [12]
2017年7月アンカーに掲載。朗読:ルーベン・ルチェフスキー
音楽:ジョン・リッスン