正しい裁きをする

2月 13, 2017

Judging Right Judgment
February 13, 2017

ピーター・アムステルダム

オーディオ所要時間: 7:29
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私たちがクリスチャンとしての歩みを進めていると、時々、「人をさばくな。自分がさばかれないためである」[1] というイエスの戒めを果たすべき時と、「正しいさばきをする」べき時[2] との間で混乱が生じます。私たちは、人をさばき、とがめることをしないようにと命じられており、同時に、正しいさばきをするようにも命じられています。それには、正しいことと間違っていることとを見分け、評価し、区別し、さらに、「悪を避けて善を行」うことが求められます。[3]

何が正しく、何が間違っているかをより簡単に見分け、判断しようとして、人々や状況に対して、十把一絡げにレッテルを貼ったり、さばいたりしたがり、白黒はっきりさせる方法で問題を分類したがるという傾向は、私たちクリスチャンが陥りやすいわなの一つです。クリスチャンとして私たちは、「信仰や希望について説明を求める人には誰にでも答える」確信を持ち、しかも自ら進んでそうするようにと言われています。一方でまた、「やさしく、慎み深く」[4] それをするべきです。弟子たるクリスチャンになる上で大切なことのひとつは、正しく間違いのない判断をするために、重要な論点、態度、行動が正しいか間違っているか、それが受け入れられるものか、受け入れられないものかを識別し類別することでもあります。それでもなお、他の人たちとの相互関係や、信仰や信念を他の人たちと分かち合う中で、私たちは優しさと尊敬心を持ってそれを行うことが求められています。

キリスト教は明確な倫理基準を提供しており、聖書は、信者に何が求められているかを教えています。福音書の随所において、イエスは、正しいことと間違ったこと、善と悪、神の御心と自分の意思との違いを教えておられます。使徒たちはそれを発展させて、教会をおさめるためのルールや方針を作りました。それらは、神の愛を分かち合い、神の教えにかなった人生を生きるためにイエスの手本にならうという、時を超えた原則の基盤となりました。

イエスは、他の人に対するさばく態度や行動をとがめましたが、私たちは個人として、良い選択かお粗末な選択か、あるいは道徳的に正しいか正しくないかを評価し、見分けることについてはやはり「正しいさばきをする」[5] 必要があることは明確です。そうした決断は必ずしも単純明快なわけではないし、私たちが周囲の人たちに見る態度や行動や行為について考え、それを正しいか間違っているか、善か悪か、良い選択かお粗末な選択かというふうに類別しようとするのは自然なことです。

さばくような態度をとらないからといって、物事の正しさを評価したり、神の言葉の基準によって物事を測ったり、それに応じて確信を築いたりすることができないとか、すべきでないということではありません。例えば、誰かが道徳的にとがめられるべきことをした場合、あなたはきっと彼らの行動は道徳的に間違っているという結論に達し、特にその行動が他の人に影響したり、害を及ぼしているならば、それについて意見を述べるよう導かれるかもしれません。

しかし、正しいか間違っているかがそれほど明確に線引きされていない場合もあります。正しい選択、間違った選択がそれほど明らかでないとか、その時は正しいとか間違っているように思えたことが、後になってみると、その逆だったとわかる場合もあります。私たちは時々、判断を誤り、間違いを通して学ぶものです。あるいは、暴力など、一般に間違っていることでも、ごくまれに、自己防衛や、他の人を危険から守るためにそれが正当とされる場合もあります。

もちろん、多くの事柄は明確であって、常に白黒はっきりしており、それが正しいか間違っているかは即座にわかります。例えば、わざと人を傷つけたり、だましたり、盗んだり、人に付け込んだりするなどのことは間違っていると知っています。私たちには、どのような行動をすべきかや、神が私たちに何を求められるかについて明確な指標があります。それに、神は私たちに良心を与えられたので、何か間違ったことをすると、良心が私たちに語りかけます。

しかし、他の人の決断や、何かの状況や出来事に必ずしも、単純な「正しい」あるいは「間違っている」のレッテルを貼ることはできません。イエスは、その実によって物事を見分け判断することができるようになると言われました。[6] それは、しばらく様子を見て、何かの決断や状況が最終的にどういう結果になるかをより良く判断できるようになるまでは、良い実を結ぶかどうかわからないかもしれないということでもあります。それで多くの場合、主の言葉にある原則を特定の状況にどう適用するかをより良く理解するためには、主がその状況や決断に合わせて示してくださる導きを求めることが必要とされるのです。

他の人の決断や行動を評価し、判断し、自分たちの倫理基準ではかることは普通のことであり、時に必要とされますが、だからといって、人々を愛に欠けたさばくような方法で扱ったり、その人の選択についてすぐ非難したりすべきだということにはなりません。神だけが、賢明で公平なさばきを下す立場にあります。私たちには、人々が担う重荷はわからないし、どうして彼らが特定の選択をしたのか、その理由のすべてもわかりません。私たちは確かに彼らのために祈ることができるし、適切な場合には、サポートやカウンセルや助言を提供することもできます。けれども、さばくような霊で差し出されたカウンセルや助言を、人々はあまり喜んで受け入れないでしょう。

クリスチャンとして、私たちは他人の態度や行動をいちいちさばかなければと感じるべきではありません。私たちは、地上で人々をさばくことよりも、彼らを助け愛して天国に行けるようにしてあげることにもっと関心を持つべきです。神こそがさばく方であり、人々の心を知っていて、私たちにはできないような形で彼らのすべてを理解しておられます。神は、人々をさばくのに私たちの助けは必要ありません。イエスは、私たちにさばくことを命じられなかったのです。

ですから、誰かの行動を心の中で評価するのは自然なことですが、最終的に大切なのは、私たちがその人をどう扱い、彼らにどう反応するかです。もちろん、私たちは子どもたちや新たに信者となった人たちに、道徳的な選択をすることや、正しく道徳的な振る舞いと、神の教えに反する間違った振る舞いとを見分けることを教える必要があります。私たちが聖書にあるキリスト教的倫理を理解するためには、聖書を土台とする必要があります。それによって、私たちが神の言葉を基盤にして決断を下せるようにです。しかし、そうする上で、すべての人に対するイエスの際限のない愛を見失うべきではありません。

私たちは皆、罪びと、また同じ感情を持った人間であり、イエスの愛、憐れみ、ゆるしを切実に必要としています。私たちは、主の愛を、また、罪をゆるし、人生で罪の足場を克服する主の力を、他の人たちと分かち合うよう求められています。イエスの愛は無条件で、多くのとがをおおうことができます。[7] イエスがその血をもってあがない、洗い流すことのできない罪はありません。[8]

初版は2010年9月。2017年2月に改訂・再版。
朗読:ジェイソン・ローレンス。


1 マタイ 7:1.

2 ヨハネ 7:24.

3 1 ペテロ 3:11

4 1 ペテロ 3:15.

5 ヨハネ 7:24.

6 マタイ 7:20.

7 ヤコブ 5:19–20; 1 ペテロ 4:8.

8 1 ヨハネ 1:7.

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