引用文集
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「メタノイア」という言葉は、「~の上に」「~の後に」「~と共に」を意味するギリシャ語の接頭辞メタと、「知性」や「思い」を意味するヌースに由来します。メタノイアとは、文字通り訳すと、人の思いや志に起こる変化です。この言葉は通常、二つの異なる文脈上で用いられ、両方においてこの文字通りの意味を保持しています。聖書では、ほとんどの場合「悔い改める」と訳されています。
キリスト教神学者テルトゥリアヌス(紀元169頃 – 225頃 )は、キリスト教神学上ではメタノイアを「思いの変化」と訳すのが最善であると主張しました。この特定の文脈においては、思いの変化を、不信者から信者への変化を指すものと解釈してもいいでしょう。さらに、この特有の思いの変化は、人の振る舞いや性質の完全な変貌を伴うものとされており、メタノイアを経験した人には、敬けんな考え方を喜んで受け入れるだけではなく、それに見合った行動を取ることが求められます。したがって、「悔い改める」という言葉は、思いと行動両方における罪の放棄を意味するのです。—ロバート・アープ
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マルコの福音書によると、バプテスマのヨハネは各地を巡って「罪のゆるしを得させる悔い改め[メタノイア]のバプテスマを宣べ伝えていた」[1] ということです。マタイの見方によれば、バプテスマのヨハネのメッセージの核心は「悔い改めよ。天の国は近づいた」[2] というものでした。ここや聖書の他の箇所に出てくるメタノイアは、「単なる内面的な性質の変化ではなく、人生の完全な転向。神の助けを要する一方で、人の側もまた倫理的に振舞うことを求められるほどに、大々的な方向転換」という意味です。—ルイスとデマレスト
思いや志の変化
簡単に言うならメタノイアは、キリストや使徒たちの宣教によって、驚くべき意味合いを豊かに宿す言葉となっています。‥‥その言葉は「後の思い」を意味し、ある考え方をしていた人が、後に別の考え方をするようになるという、思いの変化を象徴しています。‥‥
思いの変化は、福音のテーマそのものです。イエスと使徒たちの宣教はヌース[思い]に語りかけ、それを聞いた人々の中には、思いが変わった人もいれば、変わらなかった人もいました。福音が宣べ伝えられた時に人の思いが変わるなら、その人はメタノイアを体験したことになります。ですから、新約聖書冒頭のメタノイアについての宣言は、新約聖書の他のあらゆる教えに通じる入り口なのです。「思いを変えなさい!」 何についての思いでしょう? こういうことです。宗教の世界において、ある革新的な思いの変化が今にも起ころうとしている。‥‥いや、それは今、すでに起こっている。‥‥神や律法や義やゆるしについて、私たちが以前抱いていた思いのすべてが、まもなく変わろうとしている。耳を傾けなさい! メタノイアを体験し、福音を信じなさい!
新約聖書のメタノイアは、宗教についての思いに革新的変化を起こすようにとの、神から人への呼びかけです。ですから、あの「メタノイア」という素晴らしい言葉を「悔い改め」と訳すのは、まるで納得がいきません。それでは、イエスとその使徒たちの宣教に対する感じ方が、すっかり変わってしまうからです。イエスとその使徒たちの主張の要旨は、「悔い改めよ! 罪を犯したことをすまなく思いなさい」というものだったでしょうか? それとも「メタノイアを! 思いを一新しなさい!」というものだったでしょうか? これら二つの言葉に、どれほど大きな違いがあるかわかりますか? 私たちが新約聖書で学んで知っている、恵みの福音に従っているのはどちらでしょう? 前者ではなく、後者です。
福音は私たちに、宗教に対する思いを一新するよう呼びかけています。人が自分は善であり、律法に従うことが救いにつながり、律法が求めているのは部分的な従順にすぎず、人々の大半は滅びることがないと考えているのに対し、イエスは私たちに、義人は一人もおらず、律法への従順によっては誰一人救われないと信じるよう、求めておられます。律法は完全な従順を要求し、その広い道はやがて滅びに至るのですから。この世が十字架は愚かなものであると考えている一方で、使徒たちは私たちに、キリストの十字架こそが神の御力であり知恵であり、人が信仰によって救われ生きるための唯一の道であると信じるよう求めています。—イーライ・ブレイリー [3]
真の悔い改め
真の悔い改めとはメタノイアであり、それはギリシャ語で完全な方向転換を意味します。サウル王のように、すまなく思っていても、実際にはまるで変わらない人が大勢います。あわれなサウルは、学ぶことがなかったのです。彼は謝罪し、何度も悪かったと思いましたが、結局心から悔い改めて、方向転換し、行いを改めることはありませんでした。サウルは預言者サムエルの前でくずおれてすすり泣きましたが、彼が泣いたのは悔い改めたからではありません。今にも王国を失いかけており、それが残念でならなかったからです。[4] 彼は、取り繕ったうわべの下に潜む、その罪という邪悪な根を、実際に告白し、捨て去ることをしませんでした。[5]
ダビデ王も大きな罪を犯しましたが、心から悔い改めて完全に変わりました。それで神は、彼に大いなるゆるしを賜ったのです。ダビデは神の心にかなうことを求めました。[6] ダビデは神を深く愛しており、神に栄光を帰し、神を喜ばせたいと願っていました。あらゆる罪や失敗にもかかわらず、神がダビデを愛されたのは、ダビデが告白し、変わることを厭わなかったからです。そして彼はその後、意図せずして神の偉人の一人となりました。
ですから、単に悪かったと思うだけでは、真の悔い改めとは言えません。それは「メタノイア」、すなわち思いと心と方向性においてまったき変化を遂げることであり、生まれ変わって、新たな人格を備えた新たな人となり、キリストにあって新しく造られた者となることです! それがおできになるのは神だけですが、私たちも信じる意志を貫こうと努力しなければなりません。
心が変わり、人生が変わり、思いが完全に変化する時、人は真に悔い改めたことになります。それは完全に方向転換して、逆の方向に進むことを意味します! ちょうど通りで車を運転していて、反対方向に行きたいと思った時に、Uターンするように。
その時あなたが取る行動は、新約聖書で「メタノイア」が訳されている言葉の意味するところそのものです。「悔い改めよ、神の国は近づいた!」[7] そう言われた時、イエスは何と言っておられたのかわかりますか? 「あなたの人生を一転させなさい、神の御国が近づいたから」と言われていたのです! 向きを変えて、反対方向に進むようにと。もう同じ生き方を続けることはできません。同じ方向に進み続けることなどできないのです。戻って行って、富の奴隷になりながら、神に仕えることなどできません。神と富とに兼ね仕えることはできず、そんなことは不可能です。イエスご自身が言われました。「一方を憎んで他方を愛し、あるいは一方に親しんで他方をうとんじるであろう」と。[8] あなたはどちらに仕えていますか?—デービッド・ブラント・バーグ
救いのための悔い改め
パウロがエペソの長老たちに、ミレトの島に来るよう求めた時、彼は自分が「ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを」「公衆の前でも、また家々でも、すべてあますところなく話して聞かせた」[9] と言いました。その後アグリッパ王の前に立った時、パウロはこう言っています。「わたしは天よりの啓示にそむかず、まず初めにダマスコにいる人々に、それからエルサレムにいる人々、さらにユダヤ全土、ならびに異邦人たちに、悔い改めて神に立ち帰り、悔改め[メタノイア]にふさわしいわざを行うようにと、説き勧めました。」[10] パウロは、ヨハネやイエスやペテロと同じメッセージを宣べ伝え、救われるには悔い改める必要があり、真の悔い改めは、悔い改めにふさわしい実やわざ(これは文字通り、御霊の支配下における継続的な行程です)の内に表れると伝え続けました。
また聖書は、悔い改めが神の賜物であると教えています。使徒行伝5:31で、ペテロと他の使徒たちは、サンヘドリンにこう告げています。「イスラエルを悔い改めさせてこれに罪のゆるしを与えるために、神はこのイエスを導き手とし救主として、ご自身の右に上げられたのである。」 そして、ペテロが救いのメッセージを携えて異邦人のもとに行くよう主に召されたことを説明すると、エルサレムにいる兄弟たちはそれに次のように応じています。「神をさんびして、『それでは神は、異邦人にも命にいたる悔改めをお与えになったのだ』と言った。」[11]
今日この時代においては、多くの場合、クリスチャンの救いのメッセージに、悔い改めという条件が含まれていません。救いが何一つ代価のかからない、天国への無料チケットのように扱われているケースが多いのです。しかし聖書は、救いの行程が起こるためには、悔い改めるようにとの呼びかけと、悔い改めるという条件を満たすことの両方が、絶対不可欠であると教えています。[メタノイアの]動詞形は、人生において方向転換を決意するよう人々に呼びかけ、その名詞形は、救いに必要な条件を告げています。これら二つが揃って初めて、悔い改めの実が伴うのです。簡単に言うと、人は自分の人生に方向転換が必要であると認めなければならないということです。変化を遂げると決意し、人生をキリストに明け渡し、キリストの御霊を心の中に受け入れなければなりません。それには人生を明け渡すという代価がかかります。それが必要なのは、聖書の言葉も明言している通り、自分を変える能力を備えた人は一人もおらず、霊の変化は神からのみ生じるからです。そして素晴らしいことに、悔い改めはキリストに服従するすべての人に、神が賜る贈り物なのです。—ビル・クレイン [12]
2017年5月アンカーに掲載。朗読:デブラ・リー。音楽:マイケル・ドーリー。