恵み+信仰+無

10月 17, 2016

Grace + Faith + Nothing
October 17, 2016

デービッド・ブラント・バーグ

オーディオ所要時間: 5:43
オーディオ・ダウンロード(英語) (5.2MB)

神は歴史を通じて、信者たちが模範や理想とできるような、偉大な聖徒たちを立ててこられました。しかし、聖書に登場する聖徒や偉大な英雄たちは、大いにもてはやされるあまり、飛び抜けて優秀そうに見え、このように感じてしまうことも多いかもしれません。「努力して何になる? 自分は決してあんな風にはなれない。絶対に無理だろう。」 彼らが自分よりもはるかに上で、かなわないと感じるので、試みる気にもならないのです。聖書の登場人物たちですら、今の自分たちよりもずっと優れていて、理解しがたいと感じることがあります。

しかし、主がその御言葉の中でしようとされていたのは、彼らにどれだけ人間味があり、私たちと変わらないかを示すことでした。彼らは完璧ではなく、多くの点で、あなたとさして変わりません。だからこそダビデ王は、時代を通じてそんなにも大きな励ましとなってきたのです。時に罪を犯し、あれほど邪悪な人間だったにもかかわらず、心から悔い改めた後に主にゆるされ、御心にかなう者と呼ばれたのですから。彼はあれらの美しい詩篇を書き、最終的には、失敗や罪にもかかわらず主を愛した良き王となり、偉大な人物かつ預言者となりました。

使徒パウロですら、教会が大いに尊んだ、新約聖書時代の偉大な聖徒であったものの、完璧ではありませんでした。

聖徒をあまりにももてはやすと、そこから悪い影響が生じるかもしれません。劣等感にさいなまれて、自分はそんなにも信心深い聖徒となって光り輝き、苦しみや迫害を耐え忍ぶことなど決してできないのだから、もうあきらめてやめてしまいたいと感じ、こう言うのです。「努力したって何になる? 私には決してできっこない。」

しかし、モーセのような神の偉人たちも過ちや罪を犯したこと、また、聖書に出てくる神の人のほぼ全員が、弱さを抱えた英雄で、私たちと同じただの人間であったことを覚えているのは大切です。だからこそ私は、彼らの間違いや失敗や欠点や罪に目を向けるよう、諭してきたのです。「クリスチャンというものは、絶対的な神聖さや罪のない完璧さを備えた、何一つ欠点のない人間であるべきだ」などというのは、偽りの理想です。聖書はその英雄たちの罪を覆い隠したりはしません。むしろ彼らの罪や過ちや失敗を明らかにし、神が再度に渡って彼らを罰し、正し、矯正しなければならなかった様を描いています。

だからこそダビデ王はそんなにも素晴らしい手本なのです。そんなにもどうしようもない人間で、非常に多くの間違いや、恐ろしい罪を犯したにもかかわらず、主は彼をゆるし、用いられたのですから。彼こそが私の理想でした。なぜなら、「彼にできたのなら、自分にもできるはずだ」といつも思ったからです。自分が彼ほどの栄光や美や、詩篇や預言や、その他諸々の高みにまで達するとは、まったく思わなかったものの、彼ほど偉大な人でも、そんなひどい罪人になることがあるのなら、このちっぽけな罪人の自分にだって、幾らか希望があると思ったのです。

ホーリネス系の教会で教えを受けていた著名な説教師ハリー・アイロンサイド〔1876–1951〕は、ある罪を隠し持っており、それが罪であることを知っていました。しかし彼は引き続き、自分が罪のない完璧さの境地に達し、もはや一度も罪を犯していないかのように振る舞っていました。彼らホーリネス系の教えによると、恵みの第二の働きによって罪が根絶される体験をした人は、神によって以前の罪深い自己を取り去られ、絶対的に完全に罪のない完璧な状態になっているので、罪を犯すことは不可能であるとされていたからです。

ハリーは自分に正直な人で、少なくとも自分は完璧ではないと知っていました。彼は聖書を読み、ついにすべては恵みによるのだという事実に目覚めました。自分が罪を犯さず完璧でいるかどうかや、他のどんな完璧さも関係ないと気づいたのです。私たちの誰もが過ちを免れず、誰もが失敗や罪を犯すのであり、すべては神の恵みによります。私たちを救ってくれるものは、神の愛と憐れみと恵みと、ゴルゴダでの犠牲のみであり、それ以外の何ものでもないのです。

そうやってハリーはついに自分が完璧で罪のない人間ではないことを、自分自身に認めました。キリストの血と救いに対する信仰によって、救われていることに気づいたのです。彼は必死になって聖書を読み、マルチン・ルターと同じ結論に達し、同じ発見をしました。それは、「あなたがたの救われたのは、実に恵みにより、信仰によるのである。決して行いによるのではない。それは誰も誇ることがないためである」というものです。[1]

彼はすぐに皆にそのことを話し、証しし始めました。救われるには、信じ受け入れるだけでいいと教えたのです。ただ信じればいいのだと。神の恵みと自分の信仰以外は、何も要らないのだと。救われるために必要なのは、それだけです。恵み+信仰+無。もちろん働きもそれに伴うでしょう。主への愛ゆえに行う働きや労苦が。しかし救われるために、それらは必要ありません。それらは救いと、主や他の人へのあなたの愛の表れなのです。

彼は方々を回って、声高らかに主をほめたたえ、証しし、この新たに見つけた福音をのべ伝えました。ちょうどマルチン・ルターが、ついに自分たちが恵みにより、信仰によって救われているのだという結論に至った時のように! 膝をつき、石段を這うようにして上っていたマルチン・ルターは、起き上がって大声で話し始めました。「救われるためにこんなものは要らない! 懺悔をする必要などないのだ。教皇や他の誰かに向かって、手と膝をついてこの石段を這い上る必要もない。私は神の恵みによって救われている。神はすでにそれを賜っておられるので、私はただそれを受け入れて、それを神に感謝すればいいだけだ。」

彼はあらゆる場所に赴いてその教えを説き、人々が恵みによって救われるようにし、カトリック教会から追い出されました。善良になって、良いことをし、聖人にならなくても救われるなどというのは、彼らからすれば絶対に看過できない教義だったからです。あなたはただ、救われた罪人になればいいのです。恵みと信仰によって救われた罪人に。恵みプラス信仰、それ以外何も要りません。

初版は1981年11月。2016年10月に改訂の上、アンカーに再版。朗読:ジョン・マーク。


1 エペソ 2:8–9.

Copyright © 2024 The Family International