引用文集
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世界中を旅して回っていると、尖塔のある教会をよく見かけます。ロシアと東欧で宗教を廃止しようとした時、共産主義者たちは多くの教会や大聖堂に十字架があることを忘れていました。首に十字架を掛けている人がとても大勢いますが、彼らはその意味を知りません。今晩それは皆さんにとって、何を意味するでしょうか?
第一に、十字架は私たちに、自らの罪の深さを思い知らせます。私たちは神の目に、罪がどのようなものとして映るかに気づいていません。それがどれほど神を深く傷つけ、私たちを神から引き離すかを。イエスは十字架に架かる前に、ゲツセマネで祈られました。苦悩し、悲しみつつ、神にこう祈られたのです。「もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい。」[1] 杯を覗き込んだ時、主はそこに何をご覧になったでしょうか? 全世界の罪です! 主の目に映ったのは、殺人や戦争や、人種差別や姦淫や、欺きや詐欺行為でした。
人々はこう尋ねます。「罪とは何でしょう?」 罪とは、神の義に及ばないことです。神は正しく聖なるお方であられ、罪を見るに耐えられません。ダイヤモンドは肉眼では完璧に見えても、専門家のところへ持ち込んで、ルーペ(拡大鏡)を通して見てもらうと、欠陥が見つかります。そして神の目には、私たちもそのように見えるのです。‥‥聖書には、すべての人が罪を犯したとあります。私たちの誰一人として、神の要求事項を満たすに至りません。
聖書には、私たちが生まれつき罪人で、また、自らそうなることを選んだとあります。ヤコブ4:1–3はこう述べています。「あなたがたの中の戦いや争いは、いったい、どこから起るのか。それはほかではない。あなたがたの肢体の中で相戦う欲情からではないか。あなたがたは、むさぼるが得られない。そこで人殺しをする。熱望するが手に入れることができない。そこで争い戦う。あなたがたは、求めないから得られないのだ。求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ。」 私たち全員がそんな風です。罪は私たちの思いに影響します。聖書にはこうあります。「生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない。」[2]
罪は人の意志にも影響します。イエスは言われました。「すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。」[3] 人には必ず何らかの罪があります。この習慣を断ち切ることはできません。そう望んでも、そうする力がないのです。人は奴隷です。自由を求めて叫んでも、逃れる道はありません。しかし、イエスは言われました。「[あなたがたは]真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう。」[4] さらに主は、ご自分が真理であると言われました。[5]
罪はまた、人の良心に影響を及ぼします。私たちは皆、良心を持っています。時としてそれは、私たちが神に対して罪を犯すたびに点灯する赤信号のような働きをしますが、持っている良心がもはや機能していないということもあり得るのです。あまりに長いこと良心に逆らっていたため、良心が死んでしまっているというケースが。もう周りの罪や、自分の人生に巣食う罪に、衝撃を受けることも、気を害することもなくなるほどに。
罪には罰が伴います。罪の支払う報酬は死です。十字架は今晩、世界にこう宣告しています。「あなたは罪人です。あなたは死刑に値します。」 それは霊的な死、永遠の死のことです。しかし、十字架は私たちの罪ばかりではなく、神の愛をも表しているのです。神は今晩、こう言われています。「愛している。あなたが何をしたかも、あなたがどれだけ悪い人間だったかも関係ない。あなたを愛している。」 そしてよき知らせをもたらすものとは、キリストの死です。神はこう言われています。「愛している。イエスが十字架で成し遂げたことゆえに、わたしはあなたをゆるそう。」
十字架は恩赦であり、それを受けるに値しない人間に与えられる、死刑からの解放です。私たちの誰一人として、救われるに値しません。天国に行くにふさわしい人など、誰もいません。しかし、神は愛であられ、[6] 恵みと慈しみであられます。「恵み」とは受けるにふさわしくない者に、神が無償で与えられるものです。神は皆さんに今晩、恩赦を申し出ておられます。皆さんをゆるし、死後天国に行けるという保証を与えようと。それが今晩、まさにこの場所で起こり得るのです。「まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」[7]
イエスはあなたのために十字架で死んで下さり、聖書には、いったん十字架のもとに来たなら、決して同じ人間ではいられないとあります。「誰でもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」[8]
あなたは人生において、自分が失敗してきたと感じていますか? 人生が滅茶苦茶になってしまったのでしょうか? どちらの道に進むべきか迷っていますか? 今晩あなたの下す選択は、人生全体に影響するでしょう。それはまた、あなたが永遠を過ごす場所にも影響します。今から100年後、あなたはどこにいるでしょうか? もうこの世にはいないでしょうが、十字架は将来の人生を保証してくれます。十字架の後には、復活があります。キリストの死は終わりではありません。イエス・キリストはよみがえられたのです。
聖書はキリストが、ご自分と世を和解に至らせたとあります。主はあなたと和解されるおつもりなのです。あなたはその罪ゆえに、神から隔てられていますが、十字架のもとに来るなら、神と結ばれて、神ご自身の性質にあずかるようになります。—ビリー・グラハム [9]
私たちの信仰の象徴
なぜ十字架は私たちの信仰の象徴なのでしょう? 十字架そのものを見るだけで、その答がわかります。そのデザインはこの上なくシンプルで、縦木と横木だけでできています。一つは神の愛のように手を差し伸べ、もう一つは神の神聖さと同様、上に延びています。一つは神の愛の広大さを、もう一つはその神聖さの高みを表しています。十字架はその両方が交差したものです。十字架において、神はその基準を下げることなしに、ご自分の子どもたちをゆるされました。
どうしてそんなことがおできになったのでしょう? 神は私たちの罪をその御子に負わせて、代わりに罰せられました。「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。」[10] また別の訳本には、こうあります。「キリストは一度も罪を犯されませんでした。しかし神は、主を罪人として扱われたのです。キリストが私たちを、神に受け入れられる存在とできるように。」[11]
その瞬間を想像してみて下さい。神は御座におられ、あなたは地上にいます。そしてあなたと神の間、あなたと天国の間には、十字架にかかったキリストがおられます。あなたの罪はイエスの肩に置かれました。罪を罰せられる神は、あなたの過ちに対する正当な怒りを放たれ、イエスがその打撃を受けられます。キリストがあなたと神の間にいて下さるので、その一撃はあなたには下りません。罪は罰せられましたが、あなたは安全です。十字架の陰にいるのですから。これが神のされたことです。しかし、いったいなぜそんなことをされたのでしょう? 道徳的義務感からでしょうか? 天国的責任感からでしょうか? 親としてそうする必要があると感じられたからでしょうか? いいえ。神には果たすべき義務など、何一つありませんでした。それに、神がされたことを考えてもみて下さい。神は御子を、そのひとり子をお与えになりました。あなただったらそうしますか? 他の誰かのために、自分の子どもの命を捧げたりするでしょうか? 私ならしないでしょう。自分の命を捧げてもいいと思うような人たちはいます。しかし、その人のためなら娘を殺してもいいと思うような人物のリストを作るよう、言われたとしても、きっと誰の名前も書けません。鉛筆だって要らないことでしょう。そんな人は一人も思いつかないのですから。
しかし神のリストには、かつて地上に生きたすべての人間の名前が書かれています。神の愛はそれほども広大なのです。そしてこれこそが、十字架の背後にある理由です。神はこの世を愛しておられます。「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。」[12] 縦木が神の神聖さを宣言しているのと同じくらい声高に、横木も神の愛を告げ知らせています。そして神の愛は、何と広々と伸びていることでしょうか。‥‥迎え入れられるのは嬉しいことです。誰からもそうされるわけではありませんから。大学は出来の悪い生徒を迎え入れてくれません。企業は能力に欠ける人間を迎え入れてくれません。そして悲しいことに、善良さに欠けるという理由で、迎え入れてくれない教会もあります。しかし、彼らがあなたを締め出しても、キリストはあなたを迎え入れて下さいます。
ご自分の愛の広大さを表現するよう求められた時、主は片方の手を右に、もう片方を左に広げて、そのまま釘付けにされました。ご自分があなたを愛しながら死んだことがわかるように。—マックス・ルケード
神の祭壇
モーセは、流された血なしに罪のゆるしはないと言いました。[13] それはモーセの律法でしたが、イエスはこう言われました。「これはわたしの血による新しい契約である。」[14]
イエスは神の祭壇である十字架の上で、お亡くなりになりました。すべてのクリスチャンがその十字架を信じており、またイエス・キリストが自分たちの救いであり、その血が自分たちの罪のために流されたと信じる神の子たち全員が、その十字架に信頼を置いています。主は、罪のために捧げられた、最終的で究極の犠牲でした。あなたの罪をゆるすためにほふられた、最終的で究極の神の小羊です。主はその木の上で、その十字架の上で、あなたの罪に対する罰を肩代わりされたのであり、神のお考えによれば、それは罪を贖う犠牲として流された最後の血だったのです。
あなたを救うためには、値踏みできないほどの貴重な贈り物を要したのであり、それがイエスとその血でした。それは人が受け取ることのできる最も高価な贈り物であり、誰かが人の救いのために支払うことのできる、最も高額な代価です。そしてそれを支払うことができたのは、イエスだけでした。あなたがどんなに多くの犠牲を払い、自分の行いによってそれを支払おうとしても、代価があまりに大きすぎて、支払うことができません。イエスにしかできないのです! 神ご自身が、その御子イエス・キリストを惜しまないで、十字架上での死に渡されました。それによって、私たちに万物を豊かに賜ることができるように。何という愛でしょう!—デービッド・ブラント・バーグ
神の啓示
イエスの十字架は、神が罪に対して下される裁きを啓示しています。イエス・キリストは十字架上で殉教されたのだという考えに、決して甘んじてはいけません。十字架は素晴らしい勝利であり、それによって地獄の礎は揺さぶられました。イエスが十字架でなされたことにまさって確実な事柄は、この世においても永遠の世においても存在しません。主は全人類と神を再び和睦に至らせ、人の人生の基盤を取り戻して下さいました。すなわち、すべての人が神と交わりを持つことができるよう、道を設けられたのです。
イエスは偶然十字架に架かられたのではありません。地上に来られた時から、そうなるよう意図しておられました。主は「世の初めからほふられた小羊」なのです。‥‥十字架は人の十字架ではなく、神の十字架であり、人は神の十字架を体現することができません。十字架は神の性質を表しており、人類一人一人が神との交わりに入るための門です。十字架のもとに来る時、私たちはその苦しみを味わうことはありません。十字架という門の向こうにある、命そのものとつながるのです。
救いの核心はイエスの十字架にあり、救いを得るのがそんなにも容易なのは、神が途方もなく大きな犠牲を払われたからです。十字架において、神と罪深い人間はぶつかり合って(crash)一つになり、そこに命への道が開かれます。しかし、心に熱い思い(crash)を抱いておられるのは、神の方なのです。—オズワルド・チェンバーズ
2017年4月アンカーに掲載。朗読:ガブリエル・ガルシア・バルディビエソ。
音楽:ジョン・リッスン。