デービッド・ブラント・バーグ
オーディオ・ダウンロード(英語) (12.9MB)
神の御国には、私たち一人一人のための非常に特別な場所があり、神はあなただけが成し遂げることのできる、特別な仕事や使命をお持ちです。しかし、人生における神の御心を見いだし、さらにはそれを全うしたいなら、方法は一つしかありません。それは、自分自身を神にことごとく委ねることです。そうして初めて、あなたのほこりをダイヤモンドに変え、神の美しさを示して、主の素晴らしい命と愛と光を、可能な限り多くの人々にもたらすことができるのです。
人々は、あなたからにじみ出るイエスを見なければなりません。しかし、あなたの証しが自分で一杯なら、彼らはあなたの話を聞いても無駄だと感じて、さっさと通り過ぎてしまうでしょう。だからこそ主は、それは「(あなたの)権勢によらず、(あなたの)能力によらず、わたしの霊によるのである」と言われるのです。なぜなら、「私たちはこの宝(主の御霊と愛)を、土の器(肉体)の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。」[1]
イエスはご自分のために私たちがする仕事について、「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」とさえ言われました。[2] ですから、多くの荷を背負いすぎたり、重すぎる荷を引いたりという心配はいりません。ただイエスに従い、自分を通して御霊に働いて頂くようにすればいいのです。自分の思い煩いを主に委ね、主につながっているなら、私たちはキリストによって何ごとでもすることができます。ハレルヤ![3]
イエスはこう言っておられます。「わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。」[4]
「わたしの思いではなく、御心がなりますように」
自分の人生のための神の御心を見いだしたければ、主に身を委ねなければなりません。ゲツセマネの園でひざまずいてこう祈られた時、イエスは身を委ねることについて最高のお手本を示されました。「わたしの思いではなく、御心がなりますように。」[5] 踏むべき第一のステップは、服従です。
神の言葉にはこうあります。「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。」[6] 神の御心を見つけたいなら、まず要求されるのは、神の祭壇に心と体と意思を捧げることです。このように言った人もいます。「神の御心を知ることの大部分は、それが何であるかを知る前にさえ、それを行う覚悟でいることだ!」
クリスチャンで、救われており、心にイエスがおられるなら、あなたはもう自分のものではありません。イエスがその血によってあなたを贖い、あなたとあなたの救いの代価を支払われました。「あなたがたのよく知っているとおり、あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、銀や金のような朽ちる物によったのではなく、きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである。」[7] あなたは自分だけではなく、主のものでもあります。「あなたがたは知らないのか。‥‥あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。 あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。」[8]
イエスがあなたを地獄から救い出し、あなたが天国で永遠に生きることができるよう、十字架の上で血を流し、死なれたという聖書の記述を心から信じているなら、救って頂いたことへの純粋な感謝の気持ちから、主が求められることは何でも喜んで行い、主から求められたことは何でも耐え忍ぶ覚悟でいなければなりません。
主はあなたを贖い、あなたのためにその血で代価を支払われましたが、それは私たちを、何でも言うことを聞くご自分の奴隷や下僕にするためではありません。主は、私たちを僕ではなく、友と呼んだと言われました。[9] 主は私たちが、ご自分の友となることを望んでおられます。ただの義務的な気持ちからではなく、主への愛ゆえに、それをしたいと心から望んで、御心を行う人間に。それどころか、主は私たちに友以上の存在、すなわち恋人や花嫁になってほしいのです。「それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。」[10]
主は神の永久に続く御国のために、永遠に生きる子どもたちを生むことのできる花嫁を欲しがっておられます。イエスは言われました。「あなたがたが実を豊かに結[ぶ]‥‥ならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。」[11]
神にチャンスを与えなさい
主は私たちが委ねて従えば従うほど、私たちをさらに用いることができ、私たちがより幸せになり、他の人々にとってより大きな祝福となるであろうことをご存知です。主は私たちを用い、強め、塗油し、私たちが受け取りたいと望む以上に、私たちに祝福を注ぎたいと願っておられます。
私たちが地上の人生で味わう数々の経験全体が、学校のようなものです。主や救い、主と他の人への奉仕、主への服従や従順、主の愛情深いルールやその愛の律法を守ることなど、それらについて知る必要のあることを教えてくれるのです。主は「喜んで施す人を愛して」おられ、[12] 誰にもご自分の御心を押し付けたりはされません。むしろ、私たちが愛ゆえに、イエスを愛しているからという理由で御心を行うのでない限り、主は代わりにそうしてくれる他の誰かを見つけられるでしょう。主は惜しみなく喜んで、主とそのごくささいな意向にも服従し、自発的に働く人を欲しがっておられるのです。
あなたが命と意思を主に捧げ、主があなたとその人生について何を求められようと、それを喜んで受け入れるなら、主はあなたを大いに祝福すると約束されました。主に従い続ける限り、何であれ主があなたに望んでおられるような存在になることでしょう。
ある無名の日曜学校の教師が、ボストンで自らが主に導いたしがない10代の靴販売員に言った言葉を思い出します。彼はこう言ったのです。「ドワイト・L・ムーディー、神に委ね、神の御心を行いたいと願う人を用いて、神がおできになることには際限がありません。」 ムーディーは彼の目をじっと見つめて、こう答えました。「神の恵みによって、私はそのような人間になると決心しました。」 そして、実際にそうなったのです!
しばらく後にムーディはシカゴに移り、そこで他の人々に福音をのべ伝え、証しし始めました。そしてまもなく、他の人をイエスへと導けることを知って胸躍らせた彼は、靴屋を辞めて全時間で主に仕え始めました。そしてやがては、世界で最も偉大な福音伝道者の一人となり、その結果何万という永遠に生きる魂が勝ち取られたのです。
ムーディーが主に自分の意思を委ねると決心していなかったなら、それは彼だけではなく、彼のミニストリーを通して福音を聞いた何百万人もの人々にとって、何と悲しい損失だったことでしょう。あなたはこう言うかも知れません。「でも、ムーディーがしたような偉大なことを、私は主のために何一つできないでしょう。私は熱意あふれる福音伝道者でもなければ、優れた魂獲得者でもありません。」 ムーディーも最初はそうでした。彼はただの貧しい農家出身の少年で、学校の成績も平均以下でした。ただ農場での生活に嫌気が差して、大都会に移ったのです。都会で数週間過ごした後、彼は自分が目指すべき新しい目標を定めました。やり手の実業家になって、10万ドルを儲けると決めたのです。神への奉仕に人生を捧げようなどとは、これっぽっちも考えていませんでした。
実を言えば、ムーディーは救われた当初、神の御言葉や真理についてあまりに無知であったため、教会委員会に出向いて入会を求めた際に、それはできないと断られてしまいました。彼の日曜学校の教師は後に、彼についてこう書いています。「正直言って(これはムーディー氏に与えられたような神の無限の恵みを讃えて言うのですが)、彼が日曜学校の授業にやって来た時、私は彼ほど霊的な知識に乏しく、福音の真理について明確で確固とした見解を抱くクリスチャンになりそうもない人物を、あまり見たことがありませんでした。ましてや、どの分野においても世の役に立つ存在になるなどとは、到底思えませんでした。」
しかし、イエスを見いだして、主がどれだけ多くのものを与えて下さったかに気づいた時、彼は主に人生を捧げて、主に求められることは何でもしようと心に決めたのです。聖書にはこうあります。「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう。」[13] これはムーディーに限らず、これまで神が用いられた真に偉大な人々全員の秘訣です。彼らは主に近づき、主とその御力と御言葉に頼り、そこから導きや強さや霊感を得たのです。
私たちのあらゆる欠点や弱さや無能さにもかかわらず、神が御心のままに、私たちを用いておできになることには、何の際限もありません。私たちが主に自分の人生をことごとく捧げるならば。もちろん、それはきわめて大きな決断です。私たち一人一人には自由意志があり、主に人生を捧げて「まず神の御国を求める」こともできれば、[14] 自分の願望や計画や方法を最優先することもできるのですから。選択は私たちにかかっています。
神の望まれる者になる気があるなら、つまり、ありのままのあなたではなく、神があなたになってほしいと望まれているような人物になる気があるなら、神はあなたを力強く用いることがおできになります。神はあなたが自力でできないことをご存知です。自分の人生と思いと心を、あなたのすべてを、主に捧げ、自分を通して神に働いてもらわねばなりません。あなたがついに神に委ね、自分でやろうとするのをやめて主にお任せするというところまで漕ぎつけるなら、その時神は介入して、助ける機会を得られるのです。そして実際に助けて下さるでしょう。神にチャンスを与えなさい。
すべてについて主に服従するなら、何も心配する必要などありません。私たちの人生は主の御手と、その愛情深い世話の内にあるので、敵である悪魔は何一つとして奪うことも、自分のものであると主張することもできなくなります。もっとはっきり言えば、服従こそ、真に悪魔を打ち負かすために、主があなたに求められることなのです。神の言葉にはこうあります。「神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。」[15]
しかし、人生にあなたが主に委ねようとしない小さな暗い場所があり、委ねることを拒んでいる小さな部分があるなら、敵はその一つの小さなことで、そのたった一つのささいな事柄ゆえに、あなたを悩ませることができます。それで神の言葉は、こう告げているのです。「悪魔に機会を与えてはならない。」[16]
八ダースフィールドの話を思い出します。裕福な地主が一つの村全体を買い上げようと企て、ついにその地域のすべての土地を買い占めました。一つの小さな区画を除いては。ある頑固な農夫が、自分の持っている小さな土地を売ることを拒んだからです。何ものも彼の気を変えさせることはできませんでした。裕福な地主はその小さな土地の相場よりもはるかに大きい額を支払うと申し出ましたが、自分の土地を気に入っていた年老いた農夫は、土地を売ることを頑として拒みました。地主はついにあきらめましたが、気を取り直そうとこんな独り言を言いました。「小さな一区画が何だというんだ? 残りの土地は全部買い占めたのだから、八ダースフィールドは私のもの、私の所有地だ!」 しかし、頑固な農夫がそれを小耳に挟んで、こう言い返しました。「いや、違うね。八ダースフィールドはお前さんとわし、二人のものだよ!」
悪魔が神に対して、あなたについて同じことを言うのを許してはいけません。「あぁ、見ろ、神よ! 彼はすべてを委ねたが、この小さな点についてだけは委ねなかった。だから彼の大部分はお前さんのものだが、少しはまだ私のものだ。」 私たちが「悪しき者に打ち勝ち」「人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安」を得るためには、主に自分のすべてを委ねなければなりません。そのようにして、自分の意思が神の御心と調和する時、あなたは神の翼の陰で安全であり、人生でどんな嵐に見舞われようと、神はあなたにまったき平安と天国的な休息を与えると約束されました。[17] あの懐かしい昔からの賛美歌もこう歌っているように。
あなたは甘美な平安を待ち望んだ
信仰が増し加わることを
そして祈った、熱心に、心を込めて
しかし休息もまったき祝福も得られはしない
すべてを祭壇に捧げるまでは
すべてを犠牲の祭壇に横たえただろうか
御霊に心を明け渡しただろうか
祝福と甘美な休息が与えられるのは
体と魂を神に委ねた時だけなのだ
—E・A・ホフマン、1995
というわけで、今日あなたの人生を神の祭壇に捧げ、それが神の栄光のために用いられるよう求めなさい。そうすれば、神はあなたが神に委ねた分だけ、そうして下さるでしょう。あなたは神の子どもであり、神はあなたを愛し、他の人のための愛情深い奉仕においてあなたが役立ち、幸せであるよう、常に最善を尽くしておられます。イエスにあってあなたが見いだしたのと同じ人生や幸せを、彼らもまた享受できるように。神は決して失望させられません!
デービッド・ブラント・バーグの著書より編集。初版は1987年4月。2014年11月に改訂・再版。
朗読:ガブリエル・ガルシア・バルディビエソ。