変わり行く世界で絶対的真理を分かち合う

4月 4, 2017

Sharing Absolute Truths in a Changing World
April 4, 2017

引用文集

オーディオ所要時間: 9:34
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今日巷でもてはやされている見解とは、「絶対的真理というものはなく、あるのは人それぞれの意見だけである」というものです。もし意見がすべてであるとすれば、ある人の意見が他の人の意見よりも正当だということはなくなってしまいます。キリストをめぐって交わされる議論の大半が、単なる意見交換になってしまうでしょう。「自分にとって良さそうに思われるなら、真理に違いない」という判断基準で考える私たちにとって、真理が存在するという概念は、すっかり縁遠いものになってしまいました。そして私たちは、それが真理であろうとなかろうと、信者にいかなる恩恵をもたらすかによって、宗教の利益を推し量るのです。

イエスは言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」[1] また、ペテロは言いました。「この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである。」[2] イエス・キリストは、それに先立つあらゆる人物にまさる方でした。それは主がより崇高で完成された言葉を語られたからではなく(実際そうされたのですが)、主ご自身がメッセージであられ、神の啓示において、絶対的で比類なき至高の存在とされているからです。

‥‥だからこそ、へブル人への手紙の著者はこう告げているのです。「あなたがたはイエスを思いみるべきである。」[3] そして「イエスを仰ぎ見よ」と。[4] 真理は、私たちがそれをキリストと切り離す時に、失われてしまいます。それこそパリサイ人たちのしたことであり、その結果彼らは、霊的生活について何一つ知りませんでした。

聖書を熟知することはできても、キリストと切り離すなら、それは死んだ書物になってしまいます。ちょうど購入した新車の取扱説明書を持っているようなものです。取扱説明書は、ただ読むために読むのではありません。そうではなく、買った車について知り、その機能をフルに活用できるように読むのです。私たちに聖書が与えられているのは、それによってキリストと、キリストにあってあずかることのできるあらゆる恩恵を知ることができるからです。『Break Thou the Bread of Life(邦題:主よいのちの言葉を)』という古い賛美歌には、こんな素晴らしい歌詞があります。「聖なる書物をめくり、あなたを尋ね求めます。」 創世記から黙示録に至るまで、すべての聖句が最終的にはキリストに行き着くのであり、肝心なのは主を知ることなのです。—チャールズ・プライス

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絶対的なものは存在しないという現代的な教えとは裏腹に、絶対的真理は存在するし、人はそれを知ることができます。現代において、そのような非絶対主義的な哲学を唱える教師らは言います。「あなたはそれが手だと思っているが、本当にそれが手であるとわかっているわけではない。それが手であると常に教えられてきただけだ!」 彼らは人間の実存や学問や宗教の分野で、一般に認められている真理をこき下ろし、確信できるものは何もないと説き伏せようとするのです。しかし、私たちはそれが手であると知っており、確信しているし、常識のある人なら誰でも、幼い子どもですら、それが自分の手であると知っています。それなのになぜ、そうじゃないと吹き込もうとするのでしょうか。たしかに、こうも言えるでしょう。「実際のところ、それは75パーセントの水分と、大量のカルシウムや骨と、多種多様な生体元素や生体物質その他の集まりです。」 しかし、それでも手であることには変わりありません!

絶対であると認められている真理や、実証された事実として、受け入れなければならないものが幾つかあります。非絶対主義的哲学の理論家たちが異議を唱えても、耳を貸してはいけません。すべての内で最も絶対的な存在とは神であり、それゆえに絶対主義的考えに反する理論は、サタンの哲学です。絶対的なものは存在しないと教える人たちは、さらにこう言おうとします。「神も存在しない。聖書も倫理も存在しない。誰にも何にも従わなくていいし、法を遵守する必要もない。誰からも何が正しくて、何が間違っているかを説教される筋合いはない。あなたは好き勝手にすればいいんだ!」 その結果人は、混沌と無秩序と混乱に陥ってしまうのです。

クリスチャンであり主の子どもである私たちは、心から確信できる何かがあるという事実を、受け入れなければなりません。聖書と、何千年にもわたる人の経験がそれを証明しています。霊的な真理と、通常の人間の生活における、ありふれた日常的な物事の両方において。—デービッド・ブラント・バーグ

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もしキリスト教が虚偽ならば、それは取るに足りないものということになり、もし真理ならば、とてつもなく重要なものということになります。それは、ほどほどに重要な存在にだけは、なれないのです。—C・S・ルイス

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真理は覆すことができません。悪意に攻撃され、無知にあざけられても、それは最後まで真理であり続けます。—ウィンストン・チャーチル卿

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現代文化における異端的見解の中心にあるのは、「すべての真理は相対的なものである」という考え方です。つまり、「何を真理と見なすかは、人によって異なる」ということです。この不合理きわまる見解は、真理という概念自体を滅ぼしてしまう‥‥混乱した思考の産物です。自分の信条に反する信条もまた真理なのだということを、真剣に信じられる人などいません。「それは自分にとって真実だ」という表現自体、矛盾しています。物事は真実であるか虚偽であるかのどちらかなのですから。‥‥「そうだな、私にとって地球は丸いが、君にとっては平らなのかもしれない」などと言っているところを、想像できるでしょうか? 地球は丸いか平らかのどちらかであり、両方にはなれません。それについてあなたや私がどう思っているかなど、何の関係もないのです。あなたは宗教や倫理は、真理でも何でもないと主張するかもしれません。いいでしょう、「真実」という言葉は使わないで下さい。しかしもし使うのなら、そこにあの無意味な「私にとって」という言葉を付け加えて、お茶を濁さないでほしいのです。—キース・ワード

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相対主義とは、神がおられるという客観的現実への反抗です。神の存在そのものによって、真理も存在するという可能性が生じるからです。神は、真理であると主張されるあらゆる物事を判断する際の、究極的かつ最終的な基準です。神がどんな方で、何を望み、何と言われているかが、万物をその外部から客観的に判断する際の物差しとなるのです。「真理と虚偽を見分ける基準などない。それは人によって異なるのだから」という相対主義の主張は、まるで無神論者の言葉のようで、神への反逆に他なりません。—ジョン・パイパー

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道徳の順守は、堕落した人類にとって常に困難きわまるものでしたが、少なくともかつては、道徳の順守という海がいかなる嵐に見舞われようと、常に道徳的行動指針という灯台がありました。しかし今日、正規の教育によっても、非公式の教育つまりマスメディアによっても、私たちの思考を形成する教育の大半によって、その光は消え失せてしまいました。道徳性とは、感性にかかる霧のようなものです。それで人々は、チェスタートンが言ったように「道徳性は、行動指針をことごとく失った人間にとって、常に恐ろしく複雑に感じられる」という事実を、実感しているのです。行動指針とは道徳的な絶対性であり、感情や慣習という移り変わる波の下に横たわる不動の岩です。‥‥この論点は、どれほど重要なのでしょう? 結局のところ、それは単なる哲学であり、哲学は単なる思想にすぎません。しかし、思想には結果が伴うもので、時としてそれらの結果は、大虐殺や広島で起こった悲惨な出来事と同じくらい、あるいはそれ以上に重大な結果を招きかねません。哲学は単なる思想にすぎないとはいえ、思想を蒔けば行動を刈り取り、行動を蒔けば習慣を刈り取り、習慣を蒔けば人格を刈り取り、人格を蒔けば宿命を刈り取るのです。これは個人についてと同様、社会についても言えることです。—ピーター・クリーフト

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真理は元来、常に排他的なものであると言われています。イエスはご自分が道であり、真理であり、命であると断言されました。私たちは歴史から、イエスがそのような排他的主張をされたと知っています。あのようなことを言われていなかったなら、イエスは理不尽にも、真理とはあらゆるものを含む包括的なものであると、ほのめかしておられたことになります。そんなことは決してあり得ないというのに。—キム・トリラー

2017年4月アンカーに掲載。朗読:ジェイソン・ローレンス。


1 ヨハネ 14:6.

2 使徒 4:12.

3 ヘブル 3:1.

4 ヘブル 12:2.

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