神は神秘を愛される

1月 23, 2017

God Loves a Mystery
January 23, 2017

デービッド・ブラント・バーグ

オーディオ所要時間: 7:45
オーディオ・ダウンロード(英語) (7.1MB)

神は神秘をこよなく愛されます。私たちの前に不可解な謎を置き、それからその答や解決法についての糸口や手掛かりを与えられるのであり、時には少しずつそうされることもあります。発見と答の小さな山が大きくなるにつれて、私たちは自分を大いに誇らしく感じ、神も私たちを誇りに思われます。ジグソーパズルの絵が埋まり始め、私たちはそれを理解し、解明し始めるのです。

主は謎めいたものを大いに好まれますが、きっと皆さんも謎が大好きなことでしょう! ミステリー小説は世界で最も人気の高いジャンルのひとつです。聖書さえも、謎と神秘で一杯です。

私にはまるで神が、これらの謎によって私たちを悩ませたいと望んでおられるかのように思われます。それによって私たちは、神が自分の前に置かれた神秘や謎の答を見つけようと、祈るようになるからです。主は時として、私たちが主の御心を見いだそうとして、数多くの選択肢について思い巡らし、様々な考え方をする時に、そのような謎が生じることを許されます。

私の母は、何かを決める際に、一枚の紙の真ん中に線を引いたものです。線の片側は「賛成」の欄、もう一方は「反対」の欄で、それぞれの選択肢に伴うすべての利点と難点を、そこに書き入れるのです。その選択肢についてのあらゆるプラス面とマイナス面を。

神もそれと同じように、常に私たちの前に選択肢を置かれています。この人生というゲーム全体が、数々の絶え間ない選択でできているのです。私たちは日ごとに、何千もの決断を下さなければなりません。その日のほとんどすべての側面についての決断を。あまりにも多くの同じような決断を下している内に、ついにはそれが習慣となってしまいます。いわゆる「わだち」にはまり、次第にそんなにも多くの決断を、毎日下さなくてもすむようになるのです。

私の義父はかつて、次に何をするかまるでわからないといった調子の私たちに、ひどく腹を立てたものです。私たちの予定の立て方が、あまりにずさんであると思っていたようです。彼は言いました。「これでは、自分が何をするかについて、毎日山ほど決断を下さなければならないだろう。私はもう何年も、毎日同じことをしてきたよ。毎日同じ時間に服を着替えて朝食を食べ、同じ仕事に出かけたんだ。50年近くもね。」 けれども私の方はというと、多様性が大好きなのです。それに謎や不確かさや、わくわくするようなことも!

人々はサスペンスを好み、サスペンス映画やスリラー映画を見に行きます。映画は、サスペンスやスリラーやミステリーといったカテゴリーに分かれており、そのような多様性こそが、人生の醍醐味ではないでしょうか! つまり、あなたは何をしたいのか、神はあなたに何をしてほしいのか、さらには神があなたに何をするよう示唆しておられるのかについて、多種多様なオプションや、答や選択肢のあることが。

神があなたに、特定の物事をするよう強要されることはありません。大抵は一定の様々なオプションの中から選べるようにして下さいます。それはちょうど、様々なラジオ周波数の中から、自分の聴きたい局を選べるようなものです。それ以上低くできないとか、それ以上高くできないといった一定の領域があるものの、その範囲内であれば、神はあなたに色々な選択肢を与えて下さるのです。

人は神秘的なものを好み、推測ゲームやパズルや、謎かけやなぞなぞに胸躍らせるものです。ほとんどどのゲームにも、そういったことや思いもよらない展開といった要素が含まれています。

賭け事は、謎に満ちた推測ゲームです。どんな結果になるかまるでわかりません。サイコロの目がどう出るかはわからないし、ルーレットのどこにあの小さな球が落ちるかも、ホイール(回転盤)がどこで止まるのかもわかりません。ホイールを回し、一体どこに止まるのだろうと思い巡らし、そこでぴったりの数字が出れば、賞金がもらえるのです。

主は何かを探すゲームや、推測ゲームや謎がお好きです! それについての聖句だってあげられるほどです。「捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。求めよ、そうすれば、与えられるであろう。」[1] 主は開く扉を見つける前に、あなたがそれを探し回らなければならないように仕向けることがお好きです。そして扉を開ける際にも、まずあなたに求めてほしいのです。これらすべてによって、主と主の御言葉への、そして主の神聖な導きや寛大さや父親のような愛への、あなたの信仰が鍛錬されます。道の終わりに何があるのかわからなくても、なお主を捜し求め、主の導きに従う時、それによって、あなたが主を信頼しているとわかるのです。

神は人生を、謎や問題や神秘や、胸躍らせるようなものや未知のもので一杯にされました。私たちの知性や霊性、信仰や主への信頼、また霊的強度や筋肉に挑戦を投げかけるために。

子どもたちとゲームをする時、それは楽しいもので、私たちも子どもも一緒に楽しみます。神は私たちと楽しまれるし、私たちも神と共に、様々な謎や難問や、糸口や手掛かりや、カードやサイコロの目がある、人生という素晴らしいゲームを楽しむのです。ただ一つ、あなたのしていないことがあります。主を信頼し、主に従っている人であれば、賭け事や危険なことをしているわけではありません。

主はあなたにヒントや手掛かりを与えて、一歩一歩導いて下さいますが、ちょうどすごろくゲームのように、次に何が起こるかは、次の場所に行くまでわかりません。神はあなたがどのコマに進むのか、どこでコマを一気に飛ばして前進するのかを、前もって教えたりはされません。あなたがご自分の御心を見つけられるよう、一歩一歩導いて下さるのです。

神はあなたに、自分の信仰を鍛えてほしいと願っておられます。ともすれば「盲目的」と言われるほどの信仰によって、ためらわずに前進してほしいと望んでおられるのです。実際それは、可視的な信仰と呼ぶことができるでしょう。あなたには神が見えているのですから! あなたには答が見えず、解決策もわからず、神がどこに導かれているかも、何が見つかるかもわからないかもしれませんが、モーセはどうしたでしょう? 彼はアブラハムのように、行き先も知らずに出て行きましたが、それでも神が約束を果たされると信頼していたのです。

モーセは行き先も知らずに出て行きました。目に見えるはかない歓楽を楽しむよりも、むしろ神の民と共に災いに遭うことを選んだと言われています。それは見えない方を見ているかのようにして、報いを望み見ていたからです。[2]

たとえ見えなくても、私たちは神を信頼しなければなりません。神を見ることができず、どこに導かれているのかもわからなくても、ただ神に従って、前進しなければならないのです。私たちはただ、神が道に沿って落とし、残しておいて下さった、ちょっとした謎やヒントや、合図や手掛かりに従えばいいだけです。

神は神秘をこよなく愛されます。あなたはどうですか?

初版は1981年9月。2017年1月に改定・再版。
朗読:ガブリエル・ガルシア・バルディビエソ。


1 マタイ 7:7.

2 ヘブル 11:25–27.

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