決してあきらめてはいけません

7月 26, 2016

Never Give Up
July 26, 2016

引用文集

オーディオ所要時間: 10:23
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コロンブスが航海しなかったらどうなっていたでしょう。アン・サリバンががっかりし、ヘレン・ケラーのことをあきらめていたらどうでしょう。ルイ・パスツールが狂犬病の治療法を探っていた時、疲れた助手に、「やり続けよう! 大切なのは、研究を投げ出さないことだ」と言わなかったらどうなっていたでしょう。

レースの多くは、最後の1周で負けが決まります。多くの船は、最終目的地の港のすぐ外で座礁するものです。多くの戦いは、最後の攻撃で負けが決まります。

私たちが乗り出したコースを完了する望みはどれほどでしょうか。神こそが私たちの望みです。神は、ご自身が備えられたコースを私たちが進めるようにしてくださいます。イエスは、私たちを最大限に救うことがおできになります。[1]

しかし、私たちが逃げ出してしまうなら、神は私たちを助けることはできません。私たちは踏ん張り、何が何でも神に信頼する心構えでいなければなりません。神は強化部隊を送ってくださいますが、その部隊を出迎える人がいなくてはならないのです。—C・E・カウマン夫人著『荒野の泉』より編集

どのぐらい本気でほしいのか

途中でやめるのは世界一、簡単なことです。私にはよくわかります。やめるのが大得意でしたから。「やめること」の学位というものがあったなら、最優秀の成績で卒業できたことでしょう。ただ困ったことに、私は学校も途中でやめたのです。

やめたのは、学校だけではありません。最初の妻とも、結婚1年後に別れました。牧師の仕事も、叙任されて3年でやめました。海兵隊も、軍務期間の終了前に除隊させられました。人生の最初の50年間、私が完了したものといえば、刑期のみです。それだって、途中でやめられるものなら、やめていたことでしょう。

私がベストを尽くしていないのを見ると、父はいつもある詩を引用しました。これは父の人生哲学でした。こんな詩です。

仕事をいったん始めたら
終わるまで、投げ出してはいけない。
大きなものであれ、小さなものであれ
良い仕事をせよ、さもなくば初めから手を付けるな。

私たちの多くが成功しないのは、本気でそれをほしがっていないからです。卒業するために必要なだけ勉強するほど学位をほしがっていない、来る日も来る日も練習するほど本気でスポーツチームに加わりたいと思っていない、自分の選んだ職業について何もかも学ぼうと思うほどには、仕事で抜きん出ようとは思っていない、ということです。

残念なことに、月並みさというのは、世俗の世界だけでなく、多くの教会にも蔓延しています。私たちの中には、自分のなれる最善のクリスチャンになりたいとは思っていない人もいます。‥‥聖書を読んだり祈ったりもしないのです。

私は麻薬にはまっていた時、これ以上ないほどの中毒者でした。欲しくてたまらない麻薬を手に入れるのを妨げるものは何もありませんでした。私にとって麻薬は、家族や友人や自由にも勝るものだったのです。ある冬のこと、シカゴでひどい吹雪があり、車やバスが立ち往生した時がありました。そこで私は、60センチぐらい積もった雪の中を、麻薬密売所へ行くために5キロもの道のりを歩いて往復しました。それぐらい、麻薬でハイになりたくてたまらなかったのです。

自分の命を奪うものにここまで没頭していたのなら、私のために命を捧げてくださった方にもっと没頭すべきではないでしょうか。

あなたは自分になりうる最善のクリスチャンになりたいですか。どのぐらい本気なのでしょうか。—バートン・バー・ジュニア

*

ウィンストン・チャーチル卿は英文法や作文がひどく苦手で、第8学年を修了するのに3年かかりました。のちに、その彼がオックスフォード大学の卒業式でのスピーチを依頼されたというのは皮肉なことです。彼は、葉巻と杖と山高帽という、いつも通りの出で立ちで到着しました。

チャーチルが演壇に近づくと、聴衆は立ち上がって拍手で迎えました。比類なき威厳をもって聴衆を落ち着かせ、彼を敬愛する人たちの前に自信に満ちた様子で立ったチャーチルは、葉巻を置き、帽子を丁寧に演台の上に置くと、彼のスピーチを待つ聴衆を見渡しました。それから、威厳をもって大声でこう言ったのです。「決してあきらめてはいけない!」 数秒して再び、身を乗り出してこう繰り返しました。「決してあきらめてはいけない!」 その声は聴衆の耳にとどろきました。

聴衆が静まり返る中、チャーチルは帽子と葉巻に手を伸ばし、杖をついてステージを降りました。彼の卒業式スピーチはそれで終わりだったのです。—スピーカーズ・ソースブックII

何があろうと、あきらめてはいけない

私は数々の失敗をやらかしたので、何度も、もうやめたいという気持ちになりましたが、そうすることを拒みました。なぜなら神を信じているからであり、主に従わなければならないとわかっているので、あきらめるようなことはしません。

信者たちがトラブルを引き起こすたびに神があきらめていたらどうなるでしょうか。そんなことをしたら、私たちは大混乱になるでしょう! 神の顔であるあなたの顔に醜い吹き出物やニキビやできものができるたびに、神があきらめていたらどうでしょうか。神の顔となれるのはあなただけなのです! あなたが時に醜いからといって、神があきらめていたらどうなってしまうでしょうか。

あなたがすっかりこんがらがり、混乱しても、神は進み続けなければなりません。神は、体の全ての部分に、筋肉の協調運動や適切な動き方、また、こんがらがったりぎくしゃくしたりすることなく、スムーズに優雅に機能する方法を教え続けてくださいます。頭が発する命令に反して、体がどんなお粗末な振る舞いをしようと、神は進み続けなければなりません。神の体であるあなたが、足が不自由で歩けなさそうに見えても、神はあなたに歩き方を教え続けなければいけません。

あなたが体に良くない食べ物や汚染されたもので自分の体をダメにするようなことをしても、神はすべての臓器がちゃんと機能するようにしなければなりません。神はそういう体に耐えなければいけないのです。神の愛と恵みと憐れみだけが、神の言葉に対する従順と信仰によって私たちを助けることができます。それがないなら、私たちはやっていけません。

「たといそうでなくても」 私たちはこれからも進み、信じ、従い続けなければなりません。ダニエル3章で燃える炉に入った3人の神の子たちのようにです。彼らはこう言いました。「私たちの神は私たちを救い出すことができます。たといそうでなくても、あなたの体制の偶像を拝むことはしません!」 そこで一巻の終わりのように思えました。3人は炉に入れられ、その熱で執行人が死んだぐらいですから。しかし、その信仰と従順のゆえに神はそこでも彼らと共におられたので、彼らは煙の臭いが付くことさえなく出てきたのでした。

ヨブの場合も考えてみてください。主は、悪魔が彼をほとんど滅ぼすところまで許されました。ヨブの家族は殺され、経済は破綻し、さらにはヨブ自身も殺されそうになりました。しかしそれでもヨブは悪魔に降参することはせず、「神を呪って死になさい」と言った彼の妻にも屈することはしませんでした。[2] ヨブはただ神を信じ、従い続けました。頭のてっぺんからつま先まで腫れ物ができても、灰の中に座り、陶器の破片をとって膿みやかさぶたや傷を引っかきながらも、こう言ったのです。「たとえ神が私を殺そうとも、私はなお神に信頼しよう。」[3] あなたも同じことが言えるでしょうか。

あなたがヨブほどの窮状には陥らないことを願いますが、もしそうなったしても、あきらめてはいけません! 何が何でもあきらめてはいけません! 神のために進み続けなさい。何が起ころうと、信じ、従い続けなさい。結局のところ、煙の臭いすら付けずに出てこられるかもしれません。そしてヨブのように、以前より健康で幸せになり、より賢くなるかもしれません。ただヨブがしたように、あきらめずにもう少し頑張り続けさえすれば。

有名なジョン・ポール・ジョーンズ艦長の場合もそうです。自らが負傷し、部下の半分が死ぬか死にそうな状態にあり、船が燃え上がり、沈みそうになっても、降伏するかと敵にきかれて、こう叫びました。「とんでもない! こっちはまだ戦い始めてもいない!」 そして結局最後には勝利したのです。

あなたはまだ、イエスのように血を流すほどの抵抗を、しかも十字架の死に至るまでの抵抗を、したことがないのかもしれません。[4] しかし、イエスは殺されても、ほんの3日後には墓に勝利してよみがえりなさいました。死もイエスを負かすことはできなかったのです!—デービッド・ブラント・バーグ

2016年7月アンカーに掲載。朗読:デブラ・リー。音楽:マイケル・ドーリー。


1 ヘブル 7:25.

2 ヨブ 2:8–10.

3 ヨブ 13:15.

4 ヘブル 12:3–4; ピリピ 2:8.

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