見えるものによらないで信仰によって歩く

6月 30, 2016

Walking By Faith, Not Sight
June 30, 2016

引用文集

オーディオ所要時間: 9:32
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第2コリント5:6–7にはこうあります。「だから、わたしたちはいつも心強い。そして、肉体を宿としている間は主から離れていることを、よく知っている。わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。」 英訳聖書によっては、「歩いて」ではなく「生きて」と訳しているものもいくつかあります。ここでの「歩く」は、人がその人生を生きる様を表す比喩的表現です。私たちは今でも、様々な生活様式や文化(の人々)という意味で「all walks of life(様々な人生の歩み)」という言い回しを用います。

使徒パウロは読者たちに、キリストに従う人々は、永久的な重要性のないものを中心に人生を築いてはならないと思い起こさせています。クリスチャンは、この世が追い求めるのと同じものを追い求めるのではなく、むしろイエスや天国といった、目に見えない現実に関心を注ぐべきです。パウロはこう続けています。「そういうわけだから、肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。」[1] イエスは天に宝を蓄えるよう教えられました。[2] また、その御心を行うすべての人に報酬を、[3] イエスを拒む人には罰を与えると約束されたのです。[4]

信仰によって歩くとは、自分の生き様がもたらす永続的な結果を考慮しつつ人生を送ることです。信仰によって歩くとは、人よりも神を恐れ、たとえ人のいましめに背くことになっても聖書に従い、どんな代価がかかろうとも罪よりも義を選び、どんな状況にあっても神を信頼し、誰が何と言おうとも、神はご自分を尋ね求める人々に報いて下さると信じることです。[5]

クリスチャンはこの世のものを愛するのではなく、[6] 何をするにも神に栄光を帰すような人生を送るべきです。[7] このように生きるには、信仰が必要です。私たちは霊的なものを、何も見たり聞いたり触ったりできないのですから。今日もてはやされている哲学ではなく、神の御言葉の真理を人生の土台とする時、私たちは生まれながらの性向に逆らって進むことになります。‥‥信仰によって生きるためには、御霊の声や神の御言葉の真理に、心の波長を合わせなければなりません。[8] 私たちは自分の知識に頼ることなく、神が私たちに明かして下さった事柄に沿って生きることを選ぶのです。[9]gotquestions.org より [10]

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目が見えなかったらどんなだろうと想像したことはありますか? 私はこれまで何度も、目が見えない人々に共感できるよう、目をつぶったまま数歩だけ歩いてみたことがあるのですが、二、三歩歩いただけで、もう全然方角がわからなくなってしまいます。進行方向を見ないで歩くことは、私たちにとってとても不自然なことなのです。‥‥

聖書は私たちに、「見えるものによらないで信仰によって歩く」よう促しています。この行為は私たちにとって、目をつぶって歩くのと同じくらい不自然なことですが、この場合は、歩けば歩くほど歩きやすくなり、よりはっきりと目的地がわかるようになります。そして結局のところ、信仰とはまさにそういうものです。それは「望んでいる事柄を確信すること」[11] なのです。—シェーン・スコット [12]

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「見えるものによらないで信仰によって」の典型的な一例は、ペテロがガリラヤ湖の水面を歩こうとした時の話です。ある夜ペテロは、数人の仲間たちと共に、舟の上で嵐に揉まれていました。舟は今にも沈みそうで、非常に危険な状態でしたが、その時突然、イエスが「恐れるな」と言いながら、荒れ狂う波の中を歩いて来られるのが見えました。

ペテロはそれに答えました。「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください。」 イエスが「おいでなさい」と言われたので、ペテロは舟からおり、水の上を歩いてイエスのところへ行きました。[ここまではとてもうまく行っていたのです!] しかし、風を見て恐ろしくなり[「信仰」が「見えるもの」に負けてきました]、そしておぼれかけたので怖くなり、「主よ、お助けください」と叫んで言いました。イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかまえて言われました。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」[13]

信仰を阻む最大の要素の一つは、周りの世界です。それにはペテロの周りで荒れ狂っていた波のように、非常に現実味があります。地のちりから作られた私たちは、自然と、物質的なものに波長を合わせます。病気の時は痛みを感じます。近所の人や親戚が自分たちを悩ませ、脅す声を聞きます。失職すると、解雇通知や請求書の山という冷たい現実を目にします。家庭問題は現実そのものです。医療診断書も現実です。そして、誘惑や、肉の弱さもまた現実なのです。

どんな状況であれ、私たちは周りを見回して、物質的な現実を見、聞き、味わい、その匂いを嗅ぎ、感じます。五感を通してそれらを認識するのです。しかし、別の不可欠な要素があり、それは信仰です。‥‥

この世と物質的なものが心の大半を占めているなら、信仰という霊的な側面を実践することはきわめて困難です。ペテロのように、いとも容易に疑いという水に沈み始めることでしょう。‥‥

その一方で、目を物質界から離して霊的なものに向けるなら、それは信仰を強めてくれる最高の鍵の一つです。神の言葉を学習して、神の御霊に自分の内面に働きかけて頂くことによって、霊的な知識で心を満たすことができます。また、神を中心とした祈りを通して、私たちの思いはもっと、人生における神の存在の現実性に向けられるようになるでしょう。—著者不詳 [14]

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インフルエンザや、仕事仲間と一時的に仲違いするといった短期間の問題もあれば、慢性的な疾患や障害や中毒や、愛する人との死別や、あるいは怒りやむら気といった個人的な弱さを克服するための進行中の戦いのような、ずっと長期的な問題もあります。そのような問題とは、何週間も何ヶ月も、あるいは何年間も戦わなければならないかもしれません。

できることは既にすべてやったと感じているのに、依然として問題が続くこともあります。祈り、神の御言葉を読み、それに従い、神が約束を果たしてくださるように求め、神を信頼しようと努めたのに、それでも解決の兆しが見えないと、がっかりしてしまうこともあるでしょう。

そのような時、神はおそらくあなたを試して、たとえ神が特定の事柄について祈りに答えて下さらないように思われても、なおも信頼し、信じ、神が自分のもとに送って下さる他のあらゆる良いもののゆえに感謝し続けるかどうかを、見ておられるのかもしれません。「わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。見ないで信ずる者は、さいわいである。」[15] 神はご自分の子どもたちの信仰の表れを目にすることを非常に喜ばれ、信仰の試練を勇敢に耐え忍ぶ人々に、大いに報いると約束されています。

神が特別な資質を開花させるために、あなたの人生に働きかけておられるとしたら、その過程には幾らか時間がかかるかもしれません。炭の塊が一夜にしてダイアモンドになることはないし、私たちの人生についても、同じことが言えるのです。

自分はもう限界だと感じているなら、ただもう少し長くしがみついてご覧なさい。往々にして忍耐は、神の祝福の扉を開ける鍵であり、ひたすら神の答を待ち望むことに甘んじるべき時もあるのです。私たちは今すぐ問題がなくなってほしいと望んでいたとしても、神はもっと後の方がいいと知っておられるのかもしれません。神のタイミングには、非の打ち所がないのです。「このかたのなさった事は、何もかも、すばらしい。」[16] 神に信頼しましょう!

信仰とは信じることです。信仰とは信頼することです。信仰は途中で投げ出したりしません。信仰は何事をも、不可能と呼ぶことを拒みます。信仰は決して周りの状況や戦いによって、その喜びや平安を失ってしまうことがありません。

頑として負けを認めず、むしろ何が起ころうとも神にしがみつき、神の約束を信じると固く決意するなら、たとえその成就を即座に見ることはなくても、私たちは最後に勝利を手にするでしょう。そのような信仰は敗北を知りません。神は常に私たちを乗り越えさせて下さいます。—シャノン・シェイラー

2016年6月アンカーに掲載。朗読:ガブリエル・ガルシア・バルディビエソ。


1 2 コリント 5:9–10.

2 マタイ 6:19–20; ルカ 12:33.

3 マタイ 16:27; 1 ペテロ 1:17; 黙示録 22:12.

4 マタイ 25:24–46; ヨハネ 3:16–18.

5 ヘブル 11:6.

6 1 ヨハネ 2:15–16.

7 1 コリント 10:31.

8 ヨハネ 10:27; 16:13.

9 箴言 3:5–6.

11 ヘブル 11:1.

13 マタイ 14:28–31を参照.

15 2 コリント 5:7; ヨハネ 20:29.

16 マルコ 7:37.

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