コーヒ−とハグ?

7月 7, 2016

Coffee and a Hug?
July 7, 2016

マリア・フォンテーン

オーディオ所要時間: 7:03
オーディオ・ダウンロード(英語) (6.4MB)

クリスチャン作家、講演者、社会学者として人気のトニー・キャンポロが、フィラデルフィアの市街地を歩いていた時の出来事についてこう語っています。

「ふと、浮浪者がこちらに向かって来るのに気づきました。頭のてっぺんからつま先までほこりとススにまみれています。肌にも汚いものがこびりついています。しかし、彼の一番の特徴はひげでした。腰のあたりまで伸びていて、腐った食べ物が引っかかっているのです。その男はマクドナルドのコーヒーカップを持っていましたが、カップの縁には汚い口をつけた跡がついていました。よろめきつつこちらに近づきながら、彼はコーヒーカップの中をじっと見ているようでした。

すると突然、私の方を見て、大声を出しました。『おい、あんた! 少しコーヒーほしいかい?』

正直に言って、全然ほしくはありませんでした。しかし、その男の気持ちを受け取らなければと思い、『一口いただこう』と言いました。

カップを返しながら、彼に言いました。『気前がいいんだね、コーヒーをくれるなんて。今日はなんだってそんなに気前がいいんだい?』

年老いたそのホームレスは私の目をまっすぐ見て言いました。『今日はコーヒーがとびきりうまくてね。神様が何かいいものをくれたんなら、誰かに分け合わんとな!』

私は思いました。『まずい。これは一杯食わされた。5ドルせびられるぞ。』 それで、彼に尋ねました。『お返しに何かした方がいいですよね?』

その浮浪者は答えました。『あるとも! ハグをくれ!』(正直言って、5ドルの方が良かったとは思いましたが。)

彼が私に腕を回したので、私も彼に腕を回しました。その時、気づきました。彼は私を離そうとしないのです! 歩道にいたので、人が通り過ぎながら、私たちをじろじろと見ています。きちんとした身なりをした私が、汚い浮浪者にハグをしているのです! 私は恥ずかしくて、どうしていいかわかりませんでした。

すると少しずつ、その恥ずかしさが畏敬の念に変わっていったのです。わ時の回廊の向こうから主の声が響いてきます。『わたしはお腹が空いていた。あなたはわたしに食物をくれたか? わたしは裸だった。あなたはわたしに服をくれたか? わたしは病気だった。あなたはわたしを看病したか? わたしはチェスナッツ街であなたに出会った浮浪者だった。あなたはわたしにハグしたか? これらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである。』」[1]

私はこの話について深く考え、「私にはそれほどの愛があるかしら」と自問しました。

誰かにトラクトをあげることはできるでしょう。お金もあげられます。励ましの言葉もかけられます。でも、普通するようなこと、私が普通与えること以上が求められている状況だとしたら、どうでしょう?

また、人々に神の愛を与えるために活発なクリスチャンが長年もの間払ってきた、そして今も払い続けている犠牲についても考えさせられました。

この話をさらに深く考えていると、一番大切なことに気づきました。神が私たちに何かを求められたなら、心からそれをするための恵みも与えてくださるということです。高齢者ホームであれ、刑務所であれ、養護施設であれ、スラム街の掘建て小屋であれ、あるいはただの街頭であれ、他の人への心からの誠実な愛と気遣いを分かち合うというのは、目に見えるもので判断すれば犠牲ともなりえます。けれども、霊的なものに目を留め、困っている人に主の無条件の愛を与える時に生じる永遠の影響力に目を留めるなら、私たちは主がその時に必要だとご存知の主の姿を映し出すよう、御霊に迫られるのです。私たちが、救い主からの「ハグ」を切実に必要としている人と主との間のリンクになる時、物質的には「不快」なものでさえ、美しいものになります。

私はどれだけの愛を持っているのでしょう。絶対に、イエスとは比べ物になるはずがありません! 主は私たちが人間に過ぎないことをご存知で、何に対して愛と信仰を持っているかもご存知だと思います。やりやすい範囲を超えたこともさせるかもしれませんが、私たちがどこまでできるかもご存知です。主が特にやりづらい状況に私たちを置かれ、そこで何をすべきかを明確にされたなら、主はそれに従うための愛と恵みをくださるのです。

この話にあるような珍しい筋書きばかりとは限りません。単なる礼儀の問題であることだってあるでしょう。私は一度、ある人がポテトチップの袋を差し出してくれたのに、それを断るという間違いをしたことがあります。相手は親切のつもりで差し出してくれたというのに。後で私は後悔して、それがほしくてもほしくなくても、そういう食べ物を自分は滅多に食べなかったとしても、もし差し出されたら受け取るようにしよう、と心に決めました。では、私は他の人のお皿から食べ物を食べたり、他の人のコップから飲物を飲んだりするでしょうか? 普段はしないでしょう。でも、それが大切であると主が心に語りかけたなら、その通りにするよう望みます。

私は物乞いの人にも心からのハグをあげるでしょうか。そうするよう望みます。もし主がそうしてほしいと示されたなら。ある人にとっては犠牲でも、他の人にとってはそうでないこともあります。ある人にとっては、ハグをするよりも、わずかばかり持っているお金をあげたほうが簡単かもしれません。でも、別の人にとってはハグの方が簡単かもしれません。あるいは腰掛けて誰かとじっくりと話すために、非常に限られた時間を犠牲的に与える方が、少ししかないお金をあげるよりも簡単だという人もいるかもしれません。

十分な愛を与えてくださいと、主にお願いしようではありませんか? 何かの状況に出くわした時にも、ベストを尽くして、イエスがされるような反応ができるように。その犠牲が大きくても小さくても、霊的奉仕だけでなく、実際の行動によっても、誰かのためのイエスになることができるのです。 私たちはそれをイエスに対してしているのですから。「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである。」[2]

初版は2012年3月。2016年7月にアンカーに掲載。
朗読:デブラ・リー


1 Let Me Tell You A Story, by Tony Campolo (Thomas Nelson, 2000) より

2 マタイ 25:40.

Copyright © 2024 The Family International