霊的な浮力

5月 3, 2016

Spiritual Buoyancy
May 3, 2016

引用文集

オーディオ所要時間: 10:28
オーディオ・ダウンロード(英語) (9.5MB)

あなたが水の中を過ぎるとき、わたしはあなたと共におる。川の中を過ぎるとき、水はあなたの上にあふれることがない。あなたが火の中を行くとき、焼かれることもなく、炎もあなたに燃えつくことがない。—イザヤ43:2

*

救世軍の母と呼ばれるブース夫人は、死を前にして穏やかにこう言いました。「水かさは増していますが、私は沈みません。」 けれども、彼女はその生涯を通じて、同じことを言い続けてきたのです。死という大水以外にも、他の大水が幾度もその魂に押し寄せました。しばしば洪水となり、道は深い苦悩で覆われましたが、彼女は決して沈みませんでした! 恵み深い主が彼女を浮かび上がらせ、彼女は嵐に乗って前進したのです!

ですから、この主の約束が言っているのは、災難の水が、神を信じる人に決して押し寄せることがないということではなく、その人がそれに呑み込まれてしまうことがないということなのです。「その頭を常に水上に保つ」と。そういう人には「常に浮かんでいる」という恵みが与えられます。決して水中に沈むことはなく、常に水面に浮かぶのです! それは霊的な浮力という尊い賜物、聖別された善き心であり、クリスチャンの希望に宿る力です。キリスト・イエスの内に宿るなら、決して状況が「主」となって私たちを左右することはありません。私たちの主はただ一人であられ、「私たちを愛し、ご自分の血で私たちの罪を洗って下さった方によって、私たちは勝ち得て余りがある」のです。—J・H・ジョウェット

*

喜びとは、神にあって喜ぶ時に生じる霊的な浮力です。—ティム・ケラー

*

第2コリント4:7–9にはこのようなことが書かれています。「わたしたちには神からの宝があるが、わたしたちはこの宝を土の器に納めているようなものである。それは、その大いなる[並外れた、超絶的な]力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことを示している。わたしたちは四方を問題と苦難に取り囲まれているが、気をくじかれることも打ち負かされることもない。途方にくれて[困惑して、当惑して]も、生きる希望をあきらめることはない。迫害され、追い回されても、神はわたしたちをお見捨てにならず、置き去りにされることもない。時には傷つけられ、打ち倒され、押し倒されても、滅ぼされることはない。」

このような喜びや浮かび上がる力があるからといって、別に苦しみを感じていないわけではありません。それは私たちが、決して沈まないという意味です。しょっちゅう濡れ、押し倒されてはいても、倒れたままではありません。私たちは沈むことがないのです。—ティム・ケラー

*

私たちの浮かび上がる力は、神にあって自分たちが持っている、変わることのない特権に目を留めていることから来ます。すなわち、恵みと愛に満ちた永遠の父なる神に、何のはばかりもなく近づけるという特権に。—著者不詳

*

神は私たちが天の道を歩む過程で、より深みのある経験をするよう求められるようです。試練の水は、初めはくるぶしほどの深さですが、それから膝小僧の深さになり、やがて腰まで届いて、泳げるほどの深さになります。水がくるぶしの深さしかない時に、その問題の中で泳ぐことはできません。主は私たちの試練を、何と巧みに加減して下さることでしょう。つらいことに変わりはありませんが、そのすべてがちょうど良く起こるのです。—W・M・ワーズワース

*

しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。—イザヤ 40:31

*

こんなたとえを思いつきました。それは、あのよくあるエアーマットに乗って、プールの水に浮かんでいるようなものです。それに寝転んでいるあなたを、一人の友人が水中に押し下げようとするなら、できることはできるでしょうが、ほんのしばらくの間だけです。なぜでしょう? それは「浮力」と呼ばれるもののせいです。

[英語版]ウィキペディア(ワールドワイドウェブの記事なら、きっと正確なはずですよね?)は浮力を、「流体中にある物体に対して、重力とは逆に上向きに作用する力」と定義しています。さらには、「物体の密度が液体の密度よりも低いか、(ボートのように)適切な形状であれば、浮力によって物体を浮かせることができる」ともあります。

さて、それと同じように、祈りは神の「上向きに作用する力」なのです! 神の人々が私のために祈ってくれているので、私はいつまでも沈んでいたことはないし、そうすることはできないし、そうなることもありません。そんなことは主が許されないのです。

私たち信者は密度が低く(私たちの内にはイエスが生きておられるため)、適切な形状をしている(キリストの内に宿っているため)という事実を考慮に入れるなら、これにまさる状況はありません! そうでしょう? その二大要素が加わるなら、霊的な浮力が得られるのです。

とはいうものの、私たちは皆、所詮は人間です。沈むことがないという意味ではありません。そうではなく、ただ祈りとイエスの力で、沈んだままにはならないということです。

それどころか、下に下がれば下がるほど、上向きに作用する力のせいで、より勢いよく飛び上がるのです。ビーチボールを水中深くに沈めようとすれば、私の言わんとするところがわかってもらえるでしょう。ボールは猛烈な勢いで水上に跳ね上がります。

私はこの上向きの力が常に、癌やそれに伴うあらゆる怖ろしげな未知の物事といった、私を押し下げようとするどんな重力よりも強いことを学んでいます。—ジョン・D・タルバート

*

小さな茶色のコルクが
クジラの通り道に落ちた
クジラは怒ってその尾びれで
コルクを水中へとたたきつけた
しかしコルクは何度たたきつけられても
すぐに浮かび上がり
クジラの鼻先で
穏やかに漂った
コルクはクジラに言った
「たたいても、ののしっても、凄んでも
絶対に僕を沈めっぱなしにはできないよ
僕は溺れたりしない
水に浮かぶことができるほど
軽い素材でできているんだから」
作者不詳

*

その時あなたは主によって喜びを得、わたしは、あなたに地の高い所を乗り通らせ…—イザヤ58:14

*

飛行船で空を飛ぶ人々は、自分たちが学ぶ最初のルールの一つは、船を風と向き合わせ、風に逆らって飛ぶことだと言います。風が船を、さらに高く上昇させてくれるのだそうです。彼らはそれをどこから学んだのでしょう? 鳥からです。鳥は愉快に飛ぼうとすれば風に乗りますが、危険が近づくと、もっと空高く飛べるよう、くるりと向きを変えて、風と向き合います。そして太陽を指して飛んでいくのです。

苦しみは神の風のようなものです。それは神の逆風であり、時として強風にもなります。神のハリケーンのようなものですが、ただ人の人生を、神の天国に向けて、さらなる高みへと運んでくれるのです。

夏場に、息が詰まりそうなほど空気が重苦しくなる日があるのを知っているでしょう。そんなときに、一つの雲が西の地平線に現れて、次第に大きくなり、世界に豊かな祝福を注いでくれます。嵐が起こり、稲妻が光り、雷鳴がとどろきます。嵐が世界を覆い、空気が澄み渡ります。そして空気中に新たな活力が宿り、世界が変わります。

人の人生も、それとまったく同じ原則で動いています。嵐が起こると空気が変わり、澄み渡って、新たな活力で満たされ、天国のひとかけらが地上にもたらされるのです。—Streams in the Desert (荒野の泉)第1巻

*

障害によって、私たちは歌を歌うようになるべきです。風がその声を発するのは、何もない海の上を駆け抜けるときではなく、大きく伸ばされた松の木の腕に妨げられるときであり、エオリアン・ハープ(風を利用した弦楽器)の繊細な弦に当たって分散するときです。そして力強く美しい歌を歌うのです。あなたの解き放たれた魂に、人生の障害や、冷酷な苦悩の森を吹き抜けさせてご覧なさい。愛が用いるささいな支障や悩みごとに向けてさえも、吹きつけさせるのです。そうすればあなたの魂もまた、歌声を発することでしょう。—チャールズ・E・カウマン夫人

編集:フィリップ・マーティン。2016年5月にアンカーに掲載。
朗読:ジェリー・パラディーノ。音楽:ジョン・リッスン。

Copyright © 2024 The Family International