神はどれだけ気にかけておられるのか

4月 27, 2015

How Much Does God Care?
April 27, 2015

ピーター・アムステルダム

オーディオ所要時間: 7:02
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以前、一週間の間に3人の人が別々に、それぞれ内容は違うものの関連しあったことについて話してきたのですが、それがきっかけで、神が私の人生にどう関わり、関与しておられるかを考えさせられました。

一人の人は、私たちが人生をどう生きるかを神が実際気にかけておられるかどうかわからない、私たちが救いを受け取った後の選択には関心がないのではないかと言いました。私たちのほとんどの選択は神にとって関係ないのだろうと、その人は感じていたのです。特に、それが重要な選択でないのなら。

2番目の人は、あるポッドキャストを聞いていたら、その話し手は、私たちが御心を見つけるためにあらゆる手を尽くしたという地点に達した時にのみ、神は人生に介入されるという見解を述べたそうです。つまり、神は、私たちが利用できるあらゆる手を使い果たし、自分たちにできることをすべてやり尽くすことを期待され、その後で初めて介入されると。

3番目の人は、神が世界を創造された時、時計職人のように時計を組み立ててねじを巻き、そこを立ち去った、そして、時計が自分で動くのに完全に任せた、という見方を述べました。神は創造という最初の仕事をし、自然の法則を創られたけれど、そこからは首を突っ込んだり介入したりせずに、それ自体が動くに任せたのだと。

それから数日というもの、私はこれらの見解についてじっくり考えました。どうも腑に落ちないのです。神は気にかけておられない、私の人生に関与したくないとか、神の関心を得るには、かなりの努力をして、多少なりとも神にそれをしていただく価値があるように見せなければならないという考えに、私は抵抗感を覚えました。

こういったコンセプトのいずれかでも真実だとしたら、救われた後には何のために神が必要なのでしょう? 神は私にとって何の役に立つのでしょう? 混乱の時、助けや導きが必要な時、私には、神の導きを得ることができるという確信が必要です。神は気にかけておられるのだろうか、助けてくださるのだろうか、あるいはどれだけ事態がひどくなったら神は助けてくださるのだろうかと思いめぐらすのではなくて。

この3つの考え方についてあれこれ考えていると、神が私の人生に何度も介入されたことを思い出しました。神が私の下す決断に関心を持っておられることをはっきりと示すような形での介入です。何年も前ですが、一度、ある夢を見ました。それによって、質問を知る前にさえ、答えを受け取ったのです。夢を見たのは、2つの仕事のオファーがあった数日前でした。その夢のおかげで、どちらの仕事を取るべきかが極めてはっきりとわかり、それによって、私は、主のための大きな仕事に直接つながる道を歩み始めたのでした。

主の導きを探し求めて、主から直接導きを受け取ったことは何度もあります。祈りの内に解決策を求め、それを見出しました。答えを下さいと神に求めると、神はそれを下さいました。預言で私に語ってくださったり、心に語りかけてくださったり、あるいは御言葉を読むことや状況によって答えを与えられたのです。主は私に、明確な助言と導きを下さり、それに従うとうまくいったのです。私は自分自身の経験から、神が気にかけておられること、神は私に関心を持っておられ、私の人生に介入してくださることを知っています。

旧約聖書でも新約聖書でも、幾度となく、神が人間と相互のやりとりをされたという例があります。神は色々な出来事に介入されたり、指導や助言、導きや警告を与えたりされたのです。

聖書は決断の際に神の導きを求めるべきであること、また、求めるなら、神は導きを下さることを明確に述べています。

すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。[1]

わたしはあなたを教え、あなたの行くべき道を示し、わたしの目をあなたにとめて、さとすであろう。[2]

ダビデ王は詩篇で、祈るなら神が導いてくださると信じていることを明確に表し、こう祈りました。「わが歩むべき道を教えてください。わが魂はあなたを仰ぎ望みます。」 [3]

イエスは、何か困っていることがあるなら、こうしなさいと言われました。

求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。[4]

イエスは父なる神が決断を導いて下さると信じていました。この点は、弟子の中から使徒を選び出したときにも表れていました。

このころ、イエスは祈るために山へ行き、夜を徹して神に祈られた。夜が明けると、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び出し、これに使徒という名をお与えになった。[5]

聖句からして、神は、私たちが望むなら私たちと相互のやりとりを持たれたいこと、また実際にそうされることが明かです。

イエスはまた、いったん肉体的に地上を去られたなら、父が聖霊を送って信者たちに宿らせると約束なさいました。イエスは聖霊が私たちの内に宿ると言われたのです。

わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。[6]

神が聖霊を送って私の内にいつまでも宿らせなさるというのだから、神は私を一人の人間として関心を寄せておられ、また、私が何をして、どんな決断をするかに関心を寄せておられるのだと考えるのが理にかなったことです。私は、神がかなり関心を持たれていると主張したいと思います。しかも、ただ『関心』を寄せるどころか、『関与』しておられるのだと。

私には、神が私の人生に関わり、活発な役割を果たしたがっておられること、さらには相互のやりとりが伴う役割を果たしたがっておられるという証拠がたくさん見えます。神と私は一緒に働いているのです。神の御霊が私の内に宿り、私の決断を導いておられることは、私の人生の旅路の助けとなっています。

[欽定訳聖書で]聖霊を言い表すために『Counselor』(相談相手)という言葉が使われている箇所は、他の幾つもの翻訳では『助け主』と訳されています。私はその表現が好きです。神の御霊は私の助け主なのです。神が私の人生で活発な役割を果たしておられる、そして神が私という人間と、私がすることとに関心を寄せておられるとは、素晴らしいことです。

神がただ私のねじを巻いて立ち去ったりせず、それどころか御言葉と聖霊を通して神との相互関係を持つ手段を与えて下さったことを、私は心から感謝しています。聖霊が私の内に宿っているというのは、全く素晴らしいことです。

2010年9月初版。2015年4月に改訂・再版。
朗読:ジョン・マーク。


1 箴言 3:6.

2 詩篇 32:8.

3 詩篇 143:8.

4 マタイ 7:7–8.

5 ルカ 6:12–13.

6 ヨハネ 14:16–17,20.

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